新解釈・日本書紀 応神<第5回> 

日付: 2021年06月02日 00時00分

伴野 麓・著



天日槍が応神朝に渡来した人物だと見る論述もあるのだが、それは120年間の空白期間を隠蔽しようとした太安萬侶(古事記の編者)の陥穽に陥るのと変わりはないだろう。
日本書紀は、角鹿(敦賀=アマノヒボコ一族の都)という地名は、額に角ある人が来たから名づけられたとしているが、実際は、都奴と称する異俗の人々が来て居住した地を「都奴我(角鹿)」と呼ぶようになったとされている。都奴我は韓語であって、蘇那曷とも都魯鹿とも聞え、日本語では正しく言いあらわせない発音だという。古事記には「血臭」などと表記され、和名抄は「都留我」と註している。
上古から平安朝初期にかけて、敦賀をはじめとする日本海沿岸の地は、韓半島から渡来してくる航路の終着点であり、渡来人集団が定着したというのが大方の見方だ。『地名辞書』によれば、能登半島の羽咋郡に「久麻加布都阿羅加志彦神社」、能登郡に「加布都彦神社阿羅加志彦神社」、鳳至郡に「任那彦任那姫神社」などがあり、いずれも任那加羅の人々が角額という兜を着て、その地に移住したことを伝えている。
『古事記』に応神の歌「この蟹や、いづくの蟹、ももつたふ、都奴賀の蟹…」とある。古来、若狭の地は蟹の名産地であったという。

(6)自らの存在を黒子にした沸流百済は大和侵寇を隠蔽

第3回でも紹介したが、応神を阿羅伽耶王であった阿羅斯等の子と見る向きがある。阿羅斯等の子は日本書紀〈崇神紀〉に、任那国人の蘇那曷叱知という名で登場する。
あるいは扶余王の依慮の子の依羅であるとする説もある。依羅は275年、北九州に渡海し、百済古爾王の助けを受けて応神朝を建設したというのだ。古爾王は236~286年に在位した王であり、応神朝が邪馬台国であるなら、200年前後の王朝ということになる。高句麗広開土王に撃破されて倭地に避難した沸流百済の応神朝は400年前後の王朝であるから、年代に整合性がない。
伽耶諸国の金官伽耶は金首露が建てた国で、金首露が亡くなった後、仙見王子と妙見王女(神功)などの王族が日本に渡り、分国の邪馬台国を建てたともいわれる。そのため、金官伽耶の国力が弱体化して、百済と新羅の脅威にさらされた。一方、勢いを増した阿羅伽耶の応神とその一族も大挙して日本に渡ったため、本国(韓地)の阿羅伽耶は衰退するに至った。
さて、自らの存在を黒子にした沸流百済は、自らの大和侵寇をいかに巧妙に隠蔽するかに腐心したと考えられる。その結果が、名前交換という形で、当時の倭地の大王であった敦賀のアマノヒボコ王朝の王と名前を交換し、沸流百済の出自を敦賀に置いたと考えられる。それは、新羅系山陰王朝の一員であるアマノヒボコ王朝を簒奪することでもあった。
江戸時代の史学者である藤井貞幹は「応神天皇ハイヅクヨリ出サセタマフヤ。胎中天皇イロイロ疑シク思ハルナリ」などと疑惑を投げかけ、応神の父は仲哀ではなく、住吉大神であり、母の神功に住吉大神が交婚して生まれた神の子であったという見方をし、王朝交替を臭わせている。名前を変えるということは新しく出直すということだ。応神は新しく生まれ変わって、出直すという決意を新たにしたのかもしれない。


閉じる