大韓民国の建国史(238)国際化したベトナム戦を韓米同盟強化の機会に

日付: 2021年06月02日 00時00分

 韓半島で激突し本格化した米ソ冷戦は、全世界を舞台に展開し始めた。ベトナム戦争を内戦と見るか国際戦と見るかは観点の差だ。東南アジアのドミノ共産化を憂慮した米国は当初、東南アジア条約機構(SEATO)を中心に、ベトナム戦争に対応することを望んだ。
SEATOはフランスがインドシナ半島から撤退した後、1954年9月8日、アジアのNATO、つまり、反共軍事同盟として出帆した。
豪州、フランス、英国、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ、米国の8カ国で、マニラに本部を置き、意思決定は、加盟国全体の賛成が原則だった。
フランスとパキスタンはSEATOがラオスとベトナム戦に介入することに反対した。フランスは8年間のインドシナ戦の戦費の4分の3以上を負担した米国の要請を拒否した。いずれにせよ、反共同盟のSEATOは共産主義の拡大の阻止という米国の要求を拒否した。パキスタンは73年SEATOを脱退、フランスも74年脱退した。SEATOは、77年6月30日解散した。
米国はトンキン湾事件(64年8月2日)を契機に北爆を拡大し本格的に参戦した。このような状況で、韓国軍の派兵が行われた。64年9月11日、1個医務中隊(移動外科病院)130人とテコンドー教官10人で構成した第1次派遣部隊が釜山港を出発した。派兵部隊は9月22日、サイゴンに到着、25日ブンタウへ移動して、9月28日から医療活動を開始した。
南ベトナム政府から韓国軍の第二次派兵要請書簡を接収したのは65年1月2日だった。青瓦台政務秘書官が65年1月6日付けで作成した派兵検討報告書に対し、朴大統領は義勇軍の形を取ることと派兵の対価を十分取るよう指示した。だが、最終的に義勇軍でなく、国軍の派兵となった。
朴大統領は、1月14日の深夜、長官たちを招集、戦闘兵力派遣のための準備を指示した。65年1月25日、国会に2次派兵案を提出した。金聖恩国防長官が、自体警備兵力を含む工兵と輸送部隊など非戦闘部隊2000人派兵を説明した。国防部は江原道に「韓国軍事援助団」本部を創設、「ビドルギ(鳩)部隊」を編成した。部隊は建設工兵団で、自体警備部隊と輸送部隊を含んだ。
1月28日、鳩部隊派兵動議案は国会を通った。2月14日、ソウル運動場で鳩部隊の歓送式が行われた。国軍の海外派兵は、韓国社会に尚武の精神を鼓吹した。部隊は65年3月10日、仁川港を出発、16日にサイゴンに到着、サイゴン東北22キロメートルのジアンに駐屯して建設支援任務を遂行した。
ベトナム戦争はすでに内戦でなかった。60年12月に結成されたベトコン(南ベトナム民族解放戦線)を支持する国が64年は、63カ国だった。北ベトナムはすでに59年12月、南側に対する武装闘争支援を承認した。北ベトナムはホーチミンルートを建設、61年までに3万人をラオスとカンボジアに送った。ホーチミンルートで南ベトナムに移動した北ベトナム軍は61年に1万人、1965年には10万人にまで達した。 
米国はダナン空軍基地が攻撃されるや、弱体の南ベトナム軍の代わりに直接、基地を防御する地上戦闘部隊を派兵した。65年3月8日、3500人の米海兵隊がダナンに上陸した。世論は圧倒的に派兵を支持した。3500人で始まった米地上戦闘部隊は、その年の12月に20万人に増えた。
(つづく)


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