新解釈・日本書紀 応神<第4回> 去来紗別(イザサワケ)の去来は伽耶・鉄磨き・刀のこと

日付: 2021年05月26日 00時00分

伴野麓・著

(4)去来紗別(イザサワケ)の去来は伽耶・鉄磨き・刀のこと

 ホムタワケ(品陀別)こと応神の、もとの名はイザサワケ(去来紗別)ということだが、「去来」は「伊奘」とも表記される。この去来という語を、李寧熙著『もう一つの万葉集』は次のように解釈している。
「去」は韓国式訓よみで「ガル」「エェ」。「来」は韓国式訓よみで「オル」、音よみで「レ」、通常は「ネ」と読まれる。日本式訓よみでは「くる」「きたる」、通常「き」とよまれる。これらの一つの組み合わせで、「去来」は「ガルオ」となるが、「ガル」の語末音「ル」が「オ」という母音にかぶさると連音されて「ガルオ」は「ガロ」と発音される。その「ガロ」は日本語に転化して「軽」と書かれ、「かる」「かろ」と読まれることになった。この「軽」はあて字で、「伽耶」「鉄磨き」「刀」などをあらわす韓国語「ガラ」「ガロ」「ガル」である。したがって「ガロ」と読まれる「去来」も「伽耶」「鉄器づくり」を表記したものである。
一方「去来」は「エェネ」(「エェの者たち」の意)とも読まれ、「エェ」の漢字表記は「穢」である。上代の日本に早くから進出していた韓国の一部族、日本の古史書では「八」「夜」などと漢字表記される「や」と呼ばれる集団で、「くま」つまり「貊族」と常に対立していた。「去来」二字が「伽耶」、または「鍛冶王」の意の「ガロ」「ガルギ」二通りによめ、かつ、「エェネ」つまり「穢の者」ともよめるということは、もともと穢が統治していた伽耶の地を後からやって来た貊族が征服したため、「穢を引きついだ伽耶の者」をあらわす「ガロ」とも「エェネ」ともよめる「去来」という漢字を選んで表記したものかもしれない。
また『日本書紀』は、「去来」と「伊奘」は同一語であると注している。したがって「伊奘」は「伽耶」を指す言葉ということになり、「伊奘諾」と「伊奘冉」は伽耶の人(神)格ということになる。
この解読で、応神が気比大神と名前を替えたその理由がはっきりと分かる。すなわち、応神は、伽耶から渡来した大王であるということを暗喩している。その伽耶は、いうまでもなく沸流百済のことだが、沸流百済は自らの存在を黒子にしたため、伽耶という表記を用いたと考えられる。

(5)気比(ケヒ)大神は伊奢沙別(イザサワケ)こと天日槍(アマノヒボコ)

福井県敦賀市に気比神宮が鎮座し、朱色の大鳥居は1645年(正保元)に建立されたといい、『神祗志料』による祭神は御食津神伊奢沙別で、気比大神と称されたそうだが、伊奢沙別が天日槍の別名であるというのが一般的な解釈であるという。後世になって専ら仲哀天皇廟と称されるようになったそうだが、本居宣長著『古事紀伝』は、気比神宮が仲哀天皇を祭るのは信じがたいとしている。
伊奢沙別が、どうして御食津と称されたかということだが、『地名辞書〈越前国〉』によれば、夢のお告げで、名前を替えたとき、鼻がつぶれた入鹿魚が浜に打ち上げられ、食用となったため、御食津大神と称され、気比大神とも称されるようになったとある。境内には敦賀神社があって、アマノヒボコと同一視されているツヌガアラシト(都怒我阿羅斯等)を祭神としている。


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