新解釈・日本書紀 応神<第2回>

日付: 2021年05月12日 00時00分

伴野麓・著

 福岡市の西に前原、東に宇美、南に小郡があり、その三カ所はかなり離れているが、応神の世の頃は、その三所を包含する広範な地域を蚊田と称していたのかもしれず、応神の登場によって、蚊田という地名が宇美という地名に変わったのかもしれない。地名の変更は新しい支配者の出現を意味するからだ。
蚊田は往昔、賀陀、賀太、加陀などと表記され、鹿田、賀田、加太、加田となり、片居、片浦、片江、片岡、片県、片上、片口、片倉、片島、片瀬、片田、片立、片野、片原、片山などの片にも表記され、その片は、方、潟、竪、潟、固などと転記される場合もある。
いずれにせよ、蚊田は加羅に通ずる語ということだ。羅は土地の意であり、田と同じ意味になる。深読みすれば、応神は、加羅(韓半島)の地から蚊田(倭国)に上陸したがゆえに、加羅が蚊田と訛り、その後、蚊田は宇美と称されるようになったのではないかと見られる。

(2)「三韓を授けた」の意味

「誉田(応神)が腹の中にいる時、天神地祇は三韓を授けた」とあるが、常識的に考えてこのようなことはあり得ず、三韓は応神がもともと領有していたと解すべきだろう。皇国史観論者は、日本は古代から韓半島を領有していたという口実に利用し、侵略史観を増幅しているようだ。しかし、倭国にいる応神が玄界灘を隔てた韓地を領有していたということは、韓地から人や物が未開の倭地に流れていたという当時の状況からしてあり得ないことであり、何かが隠されていると見るべきだ。
三韓を領有していた応神、つまり沸流百済が高句麗広開土王に撃破されて倭国に避難し、その沸流百済が三韓を領有していたのであり、倭地も狗奴国を分国にして領有したと考えることができる。これが沸流百済が領有していた三韓を避難先の倭地における応神に授けたという表現(トリック)になったのではなかろうか。
誉田は、母の神功の胎中で成長し、分娩時に石を以て分娩時を遅らせたために長く胎内にとどまっていたということから、胎中天皇とも呼称されるが、とうていあり得ない話だ。
応神は、誉田あるいは誉田別と記されている。別は本家に対する分家の意と解釈するのが普通だが、「別」を「王」とする説もある。埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘に記されている平獲居臣系図に、3代目の弖己加利獲居が刻されており、「獲居」が「別」の表記だとされているのだが、獲居には「平定した場所に居た」という意味の解釈もあるそうだ。とまれ、『日本書紀』の誉田は『古事記』では品陀、あるいは品太とも表記されている。
誉は日本式訓よみで「ほむ」、古代音「ぼむ」と発音され、誉田は「ぼむた」と発音されて「ふいごの地」の意味になるという。誉は、古代にあっては、品、豊、褒などの漢字と同音・同義とされ、豊葦原は「征服された葦原」あるいは「服属した葦原」という意味にもなることから、誉田も「征服された地」あるいは「服属した地」という意味に解釈される。換言すれば、沸流百済に征服された地という意味になる。


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