園城寺の「園」は、初めは「圜」という字だったのかもしれません。「圜」の意味は<囲まれる>です。そして、三井寺の「井」が「囲」という字だったとしたら、<三つの寺に囲まれている寺>という意味になります。
これらのことから、長谷寺と三井寺は、天武天皇が滅ぼした百済の王族らの御霊を鎮め供養するために、天皇自らが建立を命じたということになると思います。
天武天皇は、百済の王族らの菩提を祈り、自身の成仏を願いながら、波乱に満ちた83年の人生を安らかに閉じました。
天武天皇陵は、明日香村檜隈にある八角形五段築盛の「野口王墓」に治定されていますが、間違いないと考えています。
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「海を渡った先人達」は【天武天皇】で終了となります。私の拙い論考に長い間お付き合い頂いた読者の皆様に心より感謝申し上げますとともに、独自の見解を自由に述べさせて頂く機会を与えて下さった統一日報様に深く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
(1)卑弥呼
馬韓の卑弥国から呼び寄せた者。
(2)卑弥弓呼素
馬韓の卑弥国から来た、素は「弓」と呼ばれた人。
(3)壹与
卑弥弓呼素の次に倭王に即位した女性。
(4)神功皇后
日本書紀で唯一単独の「皇后紀」として記された。
(5)履中天皇
名を、去来穂別。百済の阿華(阿化)王の太子・腆支と推定。
(6)允恭天皇
名を雄朝津間稚子宿禰。先祖は新羅の昔氏と推定。
(7)雄略天皇
名を、大泊瀬幼武(大いなる百済の、来て行った、腕力の強い者)。
(8)蘇我氏
稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代にわたる倭王と推定。
(9)崇峻天皇
名を、泊瀬部皇子(百済の一門の王子)。
(10)中臣鎌足
蘇我入鹿殺害事件の首謀者。新羅の王族・金春秋と推定。
(11)孝徳天皇
名を、天万豊日。百済の王族・翹岐と推定。
(12)斉明天皇
名を、天豊財重日足姫(充分な財産を持っていた美しい女性)。
(13)天智天皇
名を、天命開別。百済の武王の王子・豊璋と推定。
(14)天武天皇
名を、天渟中原瀛真人。高句麗の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)と推定。