演説を始めた朴大統領は原稿を見ずに即興でスピーチをした。
「鉱夫の皆さん、看護婦の皆さん、母国の家族や故郷のことで辛い思いが多いと思いますが、一人一人が何のためにこの遠い異国に来たのかを忘れず、祖国の名誉を思い、一所懸命に働きましょう。私たちが生きているうちに成し遂げられなくても、子孫のために、他国のような繁栄の基盤だけでも築きましょう…」
朴正煕大統領は演説を終えられなかった。講堂の中の皆が泣き伏したからだ。
朴大統領は、ノルトライン・ヴェストファーレン州知事夫妻が主催した午餐会の後、航空便で西ベルリンに移動した。ヴィリー・ブラント西ベルリン市長(後にドイツ首相)が空港で歓迎した。ブラント市長は「西ベルリンの問題点と業績をお見せできる機会を持つことを嬉しく思います」と話した。
朴正煕大統領は「私は今日、精神的に自由ベルリンの一人の市民になった気分でここに来ました。私はつい先ほど東ドイツの上空を飛びながら、海のように真っ暗な東ドイツを見下ろし、北韓のわが同胞たちの立場を考えました。今日のベルリンは、皆さんだけの都市でも、また、ドイツだけのベルリンではないはずで、全世界の自由愛好国民の精神的な都市です。
飢餓と恐怖の共産主義の荒野の中、自由と復興の炎が燃え上がっているベルリンの存在は、今日の自由の勝利の象徴であり、共産主義の迷信を目覚めさせる福音の炎が広がっているのです。ベルリンと板門店の悲劇が終わる日が近づいています。われわれは、悲劇を終結させることのみが人類の平和と繁栄を永続化できるもので、最後まで団結して前進して行かねばなりません」と話した。
それから朴大統領は、西ベルリン市庁を訪問した。ブラント市長は「勇敢な国民の勇敢な大統領を迎えてうれしい」とあいさつした。朴正煕大統領は翌日の5月11日、ドイツ企業家たちと朝食会の後、ベルリンの壁を視察した。
ポツダム広場の木製の展望台から朴大統領はしばらく深刻な表情で寂莫たる東ドイツ地域を見た。朴大統領は、随行した記者団に感想を述べた。
「私は今日、北韓を見ました。韓国では決して北韓を見られないが、今日、東ベルリンを通じて北韓を見ました。この場所は、自由ベルリン市が平和と自由のためにどれほど苦労したかをまざまざと見せてくれるところです。自由ベルリンのこの努力は、共産主義という迷信を打破することに成功したもので、その功績は永遠に輝くはずで、勝共の象徴となるでしょう」
朴大統領は、1962年8月に西ベルリンへと壁を越える途中、東ドイツ警察の銃で撃たれて死亡した、東ベルリンの建築工のペーターペーヒタ君の墓に献花した。
朴大統領は、午前11時「自由ベルリン工科大学」を訪問、パオロ・ヒリバー総長の案内で、1000人以上の学生の歓迎を受けて演説をした。
ベルリン工科大学訪問後、シーメンス工場、AEG電気工場、ドイツ開発協会を視察、鉄鋼産業の実像を見た。シーメンス社の工場を案内したブレマイヤー所長は「閣下、鉄鋼がなければ現代化が不可能です」と言った。朴大統領は、ブレマイヤー所長にいろいろ詳細に質問した。
朴大統領は5日間の強行軍の疲労のため夕方以降、公式日程を取り消し休憩した。それでも張基栄副総理と朴忠勳商工部長官を部屋に呼び、帰国後、すぐに製鉄工場建設計画を立てて報告するように指示をした。
(つづく)