海を渡った先人達(84)先人14人目 天武天皇⑤

日付: 2021年04月07日 00時00分

 天武天皇はまた、皇子たちのための新しい都・新益京の造営、律令の編纂、帝紀や史書の校定などにも精力的に取り組み、「軍事は政の要なり」と、常に武術の訓練も怠りませんでした。
683年7月のことでした。天武天皇は、藤原鎌足の正室・鏡姫の病気を見舞われましたが、鏡姫は翌日に亡くなりました。その墓は、奈良県桜井市にある「鏡女王忍坂墓」に治定されています。
鏡女王墓―天武天皇陵―本薬師寺跡の3地点を結ぶと、「20度・70度・90度」の直角三角形になり、非常に強い関連を示しています。このことは、天武天皇が鎌足の正室・鏡姫に対して、特別な思い入れがあったことを示唆しています。
天武天皇が大海人皇子の時の668年5月5日のことです。蒲生野での薬狩りの宴席で詠んだと推定される額田姫王への返歌が万葉集にあります。
『紫の、にほへる妹を憎くあらば、人妻故に吾恋ひめやも』<紫草の野で、匂うように美しいあなたが妬ましいのは、手に入らない人妻だからです。だから、いっそう、あなたに心惹かれるのです>
この歌が歌われた時点で、額田姫王は大海人皇子と別れて他の人の妻になっていること、そして大海人皇子は元妻への未練と、恋しい気持ちが募っていることがわかります。
また、天武天皇陵・鏡女王墓・本薬師寺跡の3地点が非常に強い関連を示していることから、鏡姫は天武天皇の元妻・額田姫だった可能性があります。そこで、二人が同一人物だったと仮定して、次のように想像を巡らせてみました。
鏡姫=額田姫は、17歳頃に中大兄皇子(豊璋)と相思相愛になる。27歳頃に大海人皇子(蓋蘇文)の妻になり十市姫を産む。33歳頃に鎌足(春秋)との間に不比等が産まれると、大海人と別れて鎌足の正妻になる。43歳頃に鎌足が亡くなると、天智天皇(豊璋)に仕える女官になる。近江朝廷が倒されると、娘の十市姫と息子の不比等と共に天武天皇(蓋蘇文)の下に保護される。その後、十市皇女の自死後の53歳頃に忍坂の粟原に隠棲する。54歳頃に病気になると、天武天皇は鏡姫=額田姫の病気平癒を願い薬師寺の建立を勅願する(680年)。しかし病は回復に至らず、天武天皇が見舞った翌日に死去する以上、勝手な妄想をさせていただきました。
天武天皇は、686年7月に元号を「朱鳥」と改元して、9月9日に84歳で崩御しました。まさに燃え尽きたと言える13年間の治世でした。しかし、なぜ崩御の2カ月前に朱鳥という元号に改元したのでしょうか。日本書紀には記されていませんが、天武天皇の治世は「白鳳」という元号が使われていたようです。最晩年に元号を朱鳥に改元した理由は、高市皇子が天皇に即位したからではないかと考えています。
当然、持統天皇紀は創作されたものと思われます。そのように考える根拠は、天武天皇の人物を見極める基準が、身分や家柄よりも当人の能力や資質に重点を置いている点です。青年期の蓋蘇文は、我が強く、自分の意志を貫き通していましたが、経験を積んで次第に丸くなり、豪快の裏に隠されていた緻密で繊細な面が現れて来たように感じます。そして、人間の本当の価値が何であるのか、わかったのかもしれません。


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