蓋蘇文の死亡時期については、高句麗本紀・宝蔵王二十五年(666年)の『蓋蘇文が死んだので、長子の男生が莫離支になった』という記述から、666年が定説になっています。しかし、日本書紀の664年10月に、『高麗の大臣・蓋金が死んだ。子供らに遺言して、<お前達兄弟は、魚と水のように仲良くし、爵位を争うことがあってはならぬ。もしそんなことがあれば、きっと隣人に笑われるぞ>と言った』との記述もあるので、664年10月頃とも考えられます。
淵蓋蘇文の死亡時期について最も気になっているのは、高句麗本紀の次の記述です。
『宝蔵王二十一年(662年)春正月、左驍衛将軍・白州刺史・沃沮道摠管の龐孝泰と蓋蘇文が、蛇水の上(現在の平壌一帯)で戦った。登用した兵は13人の息子と共に水中に没し、皆戦死した』
これは、唐側から見て書かれたのか、それとも高句麗側から見て書かれたのか、はっきりしない文章になっているように思います。
中国語の維基百科「龐孝泰」では、『蛇水の戦で、62歳の龐孝泰が彼の13人の息子と共に戦死した』とされています。蓋蘇文が死んだとは記されていませんが、『皆戦死』とあるので蓋蘇文の死も暗示したものとも理解できます。
662年の正月は、豊璋が百済の故地に渡る4カ月前のことです。また、662年は、大海人皇子の子・草壁皇子が生まれた年と推定されていること、そして大海人皇子が皇太子になった年とされていることから、蓋蘇文は、662年の初頭に高句麗を去った可能性が非常に高いと考えられます。
蓋蘇文が去った高句麗は、父の遺言を守れなかった3人の息子達によって滅亡に至ったと言っても過言ではありません。二人の弟(男建・男産)の攻撃を避けて唐に亡命した長男・男生は、唐の助けを得て高句麗を滅ぼそうと計り668年9月、700年余り続いた高句麗王朝は、ついに滅亡したのです。
その高句麗の王朝は、4年後に日本で蘇りました。672年8月に近江朝廷を倒した蓋蘇文は、日本国天皇の座を手にしたのです。翌673年2月27日、日本書紀によれば、『天皇は有司に命じて壇場(八角形?)を設け、飛鳥浄御原宮で即位の儀をされた』とあります。
壇場には、堂々として誇らしげな71歳の蓋蘇文の姿がありました。卑弥呼の死後に倭王に就いた卑弥弓呼素(高句麗王・憂位居)以来の、高句麗系政権の誕生でした。天武天皇は、次々に斬新な政策を打ち出して実行しましたが、特徴的なことは次のようなことでした。
・大臣を置かなかった。
・蘇我王朝以来、途絶えていた伊勢神宮の斎王を復活して天照大神を祭らせた。
・朝廷に仕えたいと願う者は、庶民であっても才能の優れている者を採用した。男性については雑務から始め、後にそれぞれの能力に応じて適職に当たらせた。女性については、夫の有無や長幼を問わず受け入れた。・道教を崇拝し、占星台や陰陽寮を設置して呪術的な活動に力を入れ、風と水の神を祭った。
・「八色の姓」を制定した。