海を渡った先人達(82)先人14人目 天武天皇③

日付: 2021年03月17日 00時00分

 唐の太宗・李世民が、『遼東の役をもう止めるように…』との言葉を残して51歳でこの世を去ったのは、649年5月のことでした。644年から5年余り続いた遼東の役は心身共に疲弊した太宗の死で終わりましたが、蓋蘇文にとっても、この戦いは大きな心の傷になったと思われます。双方にとって何の成果も得られなかった上に、国や人民の被害が甚大で国内はすっかり荒れ果ててしまったからです。
その後、蓋蘇文は高句麗本紀では661年9月まで姿を消していますが、日本書紀には653年に大海人皇子の名で初めて現れ、鎌足の孝徳天皇排除の陰謀に協力しています。
莫離支の職を解任されて、高句麗での自身の将来に希望を失いかけていた蓋蘇文は、百済討伐という野望の実現に協力を求めた金春秋の誘いに飛びついたようです。晴れて百済の討伐が達成された暁の見返りは、日本国の天皇の座だったのかもしれません。すでに51歳になっていた蓋蘇文の心は、海の彼方の日本に向かったのです。
蓋蘇文の日本での最初の子は、653年に生まれたと推定される高市皇子です。皇子の実母は胸形君徳善の娘・尼子娘といい、胸形とは、筑紫の宗像のことです。高市皇子の生年から勘案すると、蓋蘇文は653年初頭には筑紫に到着していたと考えられます。そして筑紫で尼子娘を娶り、その年、大和国高市郡で高市皇子が生まれたことが推察されます。
またその頃額田姫を娶り、翌年に大和国十市郡で十市皇女が生まれたようです。十市皇女は、天智天皇の子・大友皇子の妻になり葛野王を産みました。葛野王は淡海三船の祖父です。十市皇女は678年に自死したと考えられますが、その時の天武天皇の深い悲しみが日本書紀の文面から伝わって来ます。また万葉集の高市皇子の歌にも、その時の衝撃が率直に表されています。
高句麗に帰国した蓋蘇文が再び日本に来たのは、656年8月8日のことでした。『高麗は、大使・達沙、副使・伊利之ら総員81人を遣わして調を奉った』と日本書紀にあります。この時の滞在中に、八坂神社の前身「感神院」を創建しています。八坂神社の由緒によると、『斉明天皇二年(656年)に、伊利之が、新羅国の牛頭山に鎮座していたスサノオの尊の御霊を、山背国八坂郷の地に遷座して祀った』とあります。
スサノオの尊が、高句麗王の憂位居(在位227~247年)であろうと、【卑弥弓呼素】のところで考証しましたが、蓋蘇文がスサノオの尊を祀ったという事実から、蓋蘇文が「スサノオの尊が高句麗王であった」と知っていたこと、また憂位居が倭王に即位したことに敬意を払っていたことが窺われます。
660年に百済が滅亡すると、唐の将軍らは、次に高句麗に向けて進撃を開始しました。百済では、鬼室福信らが百済の再興に向けて動き出していて、半島内は慌ただしくなっていました。そんな中、新羅王・金春秋が長男の法敏に王位を譲って日本に移住し、その後、高句麗の蓋蘇文も自らを死亡したことにして後事を3人の息子達に託すと、日本に移住したのです。


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