植民地と戦争を通じて不死鳥として鍛えられた韓国人たちを導くことになった朴正煕が、国家発展のモデルとして見るようになったのが西ドイツだった。朴正煕大統領は1964年12月7日、西ドイツを国賓訪問した。韓国で1人当たりのGDPが100ドルルほどの時だった。航空便は西ドイツ政府が提供したルフトハンザ航空のボーイング707機だった。日本の東京と西ドイツのボンの間を往来する一般旅客機のファーストクラスと2等席の半分を空け、間にカーテンを設けた(大韓民国大統領が外国を訪問するときに、自国機を利用するようになるのは69年3月、大韓航空が発足した後だ)。
一般旅客機だったため、東京で搭乗した乗客たちは、12月6日の午後、金浦空港で行われた朴正煕大統領の出国行事を窓の外に見ることができた。大統領は一般席に搭乗した乗客たちの寄着地である香港、バンコク、ニューデリー、カラチ、カイロ、ローマ、フランクフルトを全部経由せねばならなかった。香港総督のデビッド・トレンチ卿をはじめ、国交がなかったカラチ(パキスタン)を除いて、寄港地のすべての空港で国家元首として迎接を受けた。
カイロに到着したのは、現地時間で深夜の0時35分だったが、当時の親北外交路線を取っていたエジプトのナセル大統領は、タラド・カイリ青年長官などに空港へ出迎えするように指示し、「朴大統領の壮途を祝い、成功を祈る」というメッセージを伝えた。12月7日の朝8時19分、フランクフルトに乗客を降ろしてからすぐ離陸してボン空港に到着した。飛行時間は28時間だった。
ハインリヒ・リュプケ大統領夫妻が空港で迎えた。ルートヴィヒ・ヴァン・エルハルトゥ首相、オイゲン・ゲルシュテンマイヤ下院議長も出迎えた。儀仗隊の査閲を受けた後、両国の大統領が演壇に立った。リュプケ大統領の歓迎の辞があった。
「ドイツ国民は心から朴大統領のドイツ訪問を歓迎し、国土分断という悲しみの共同運命の中に置かれている韓・ドイツ両国は、私たちの共通の目標と共同希望の完遂をさらに固く約束します」
朴大統領は、到着声明を発表した。
「今回の訪問を契機に貴国が廃墟の上で成し遂げた奇跡的な建設をこの目で見て、また学び、両国間の深い理解と緊密な協力により、共通の目標である国土統一を最短期間に、また東西が時を同じくして達成することを念願し誓約いたします」
朴忠勳商工部長官を随行してボンに到着していた商工部工業第1局長の呉源哲も現場を見ていた。呉源哲局長は、朴長官と同様に朝食のみの提供で、入浴などには別途料金を支払う、1日3ドルの民宿に留まっていた。西ドイツ人は質素に暮らしていた。朴大統領の宿所のスイートルームの広さも10坪に満たなかった。
朴大統領の西ドイツ訪問には白永勳中央大学教授が非公式随行員(通訳)として同行した。朴大統領の西ドイツ訪問が決定された後、在韓西ドイツ大使を通じて、ドイツ政府から専用機を借りたのも白教授だった。白教授は大韓民国国費奨学生として58年、西ドイツのエルゲン大学院で経済学博士号を取った大韓民国経済学博士1号の人物だ。白教授は5・16の後、革命政府の丁来赫商工部長官が中心となった「借款交渉使節団」が西ドイツを訪問(61年11月)したときも長官特別補佐官として同行しマルク貨借款3700万ドルを成功させた主役だ。(つづく)