経済企画院は1963年8月8日、労働者1500人をルール炭鉱地帯に派遣することを西ドイツ政府と合意、500人を年内に派遣することにしたと発表した。
対象者は中卒業以上、年齢は20歳以上30歳までで、給料は650マルク(162ドル50セント)、炭鉱で3年間、働いて技術訓練を受けると発表した。
産業化以前の韓国では、高等教育を受けても働き口は非常に不足していることから、志願者は大卒と高卒が大半で、鉱山労働経験のない人が虚偽経歴を出したことがばれたりした。この「インテリ鉱山労働者」たちは派遣の前に20日間の訓練を受けた。昼は採炭作業を実習、夜はドイツ語を学んだ。派遣第1陣の123人が12月21日、エールフランス便で出発した。鉱山労働者としての就業者は63年から77年まで7936人だ。
一方、看護要員も60年から西ドイツに就職した。看護要員たちは76年まで総1万1057人が派遣された。看護要員は最初から政府次元で派遣したのではない。ベネディクト宣教会の神父が58年、慶北金泉の聖義商高(現、聖義女子高)卒業生30人を選抜、西ドイツの看護学校に送って試験に合格し正規看護師となった。他にも、カトリック教会が、修道女候補生と女子高生をドイツの看護学校に送った。西ドイツへの看護学校留学生が65年3月24日、青瓦台を表敬、朴正煕大統領に出国の挨拶をした写真が残っている。
60年代に入り民間で看護師を募集し西ドイツ病院に就職させた。彼らが良い評価を受けて66年、政府次元(韓国海外開発公社)で看護師と看護助手を募集、西ドイツに派遣する。派遣の前、短期コース(3カ月課程)の看護助手の訓練課程も設けられた。当時、西ドイツ行き航空機に搭乗する看護師たちは太極旗を持っていた。在ドイツ韓国人看護協会は66年を公式派遣年度として毎年記念行事をする。
十分な準備なしにドイツに行った看護師たちは、最初は言語、食事、患者の看護で苦労した。日課が終わってから寮で夜遅くまでドイツ語を勉強した。時間が経つにつれ看護師としての役割をうまくこなせるようになった。彼らの評判はさらに良くなった。看護師たちは、給与を節約して毎年、1000万マルク以上を本国へ送金した。帰国する看護師はほとんどいなかった。鉱夫と看護師の約60%は、ドイツに残留し、ヨーロッパ各地、もしくは北米などの第3国に再移住、他の在外韓国人社会の形成と発展に寄与した。
米国からの無償援助が減少したことから海外からの資金導入が切実な課題となった。61年、西ドイツの対韓国商業借款は両政府間の「経済技術協力議定書」(61年12月13日)に基づく援助だった。この商業借款は、韓国に大規模の高額設備を輸出する西ドイツのメーカーに提供された長期輸出取引信用で、実際は西ドイツのHermes輸出保険公社が保証、ドイツ復興金融公社(KfW)が資金の供与者だった。
ドイツに派遣された鉱夫と看護師を含む海外就業者が65年、本国に送金した外貨は商品輸出額の10・5%、貿易外収入の14・6%だった。西ドイツ派遣鉱夫と看護師たちの送金額は65年から75年まで総額で1億153万ドル、65~67年間の送金額は総輸出額比1・6%、1・9%、1・8%だった。
ベトナム派兵が本格化した67年は、海外から送金額が商品輸出額の36%、貿易外収支の31%を占めた。
(つづく)