海を渡った先人達(80)先人13人目 天智天皇⑦/先人14人目 天武天皇①

日付: 2021年03月03日 00時00分

 歌の内容から、天智天皇は、山科にある鏡山(場所は不明)に葬られたと解釈できますが、実際、天智天皇陵は京都市山科区にある御廟野古墳に治定されています。しかし、後に、明日香・真弓の丘の牽牛子塚古墳に改葬されたと考えています。
その根拠として、「牽牛子塚古墳」、天智天皇の母の「斉明天皇陵」、天智天皇の母方の祖父・沙宅積徳(巨勢徳太)の墓と推定される「寺崎白壁塚古墳」の3地点を結んだ結果、「30度・35度・115度」の三角形になりました。二つの直角三角形に分割すると「30度・60度・90度」「35度・55度・90度」となり、強い関連が示されているからです。
三者が互いに関連していることは、牽牛子塚古墳に天智天皇が改葬されたことを示唆しています。また、この古墳には、皇后の倭姫王も合葬されているように思います。

【先人14人目】天武天皇①


天武天皇(在位673~686年)の名、天渟中原瀛真人とは、「留まっていた中原から瀛(海)を渡った、宇宙の三気(天・地・人)を一体化させることができる人」と解釈できます。天皇に即位する前は、大海人皇子・大皇弟などと呼ばれ、天智天皇の弟とされています。
しかし、【中臣鎌足】のところで、大海人皇子を高句麗の淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)と推定し、【斉明天皇】【天智天皇】のところでもそのことが確認できました。淵蓋蘇文の生年は、日本語版のウィキぺディアでは不詳となっていますが、英語版と中国語版では603年生まれとされています。ここでは、その生年で考察を進めていくことをご了承下さい。
大海人皇子(蓋蘇文)は、壬申の年(672年)に、天智天皇の後を継いだ大友皇子の政権に挙兵しました。その大義名分は、「近江朝廷による大海人皇子排除の陰謀に対抗する」というものでした。戦いは、わずか3カ月余りで決着がつき、大海人皇子が勝利しました。そして翌年の673年に、何と71歳で日本国の天皇に即位したのです。そんなエネルギッシュな淵蓋蘇文の高句麗時代はどのようなものだったのかを、史書の記述から探っていくことにします。
淵蓋蘇文は、「高句麗本紀」では、蓋蘇文・蓋金・蘇文などと記され、淵姓は見られませんが、「列伝・蓋蘇文」では、姓は泉氏とあります。これについては、唐の高祖・李淵(在位618~626年)の実名「淵」を避けたとされています。また「日本書紀」には、伊梨柯須弥・伊利之・賀取文・蓋金などの名が見られます。
蓋蘇文の父・淵太祚は、西部大人で〈大対盧〉という職に就いていました。〈大対盧〉は、国政全般を司る最高官職です。
蓋蘇文の幼少期のことについては不明ですが、蓋蘇文が父の後を継ぐ時のことについては、「列伝・蓋蘇文」に記されています。それによると、国の人々に大反対されたが、父の官職を継がせてくれと皆に頭を下げて頼み込んだ結果、彼を憐れんで許したということです。


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