大韓民国の建国史(227)大陸との断絶、孤立を祝福に変えた韓国の対外指向戦略

日付: 2021年03月03日 00時00分

 大韓民国の建国と産業化の過程を文明史的観点から振り返ってみると、国軍がなかったら朴正熙もなかったし、国軍と朴正煕がなかったら5・16革命もなかった。つまり、現代化した国軍ができていなかったら、韓国の現代化革命はなかったと言わねばならない。
韓国の圧縮成長を第一線で担ってきた企業の役割も当然、高く評価せねばならない。開発時代の韓国の大企業は、政府の政策と歩調を合わせてきた。したがって、他国の企業とは違う決定、行動をするしかなかった。少なからぬ人々がこの現象を「軍事文化」と批判したが、これは決して非難されることでない。民間企業家としての判断と経営を超えた、偉大な起業家たちがいたからこそ、韓国は産業化に成功した。サムスンの李秉喆と現代の鄭周永は自分の会社では朴正煕のような存在だった。
韓国が意欲的に近代化へのビジョンと覚悟を持っても問題は資金だった。インフラを建設し、工場を建てるための投資資金がなかったのだ。国際社会は、戦争で荒廃した貧しい新生独立国の韓国に資金を貸してくれなかった。
国の進路を対外指向にした朴正煕大統領は、雇用と人口増加の圧力を緩和する観点からも、海外移民と就業を積極奨励、支援した。韓国は1945年8月、解放と同時に、韓半島の分断で国土の半分以上を失い、大陸と完全に断絶され、歴史上初めて島国となった。ところが、朴正煕が対外指向という偉大な選択、転換をしながら、この強要された孤立は、韓国にとって、大陸との断絶と海洋文化への本格的編入という祝福となる。
歴史的に朝鮮王朝と日本の植民地を経ながら、韓民族は民族移動を経験する。朝鮮王朝のとき天災などで非常に乏しくなった18世紀に満州への移住とハワイ移民があった。解放と6・25戦争を通じての民族移動は、韓国社会を完全に変えた。そして、朴正煕の対外指向は、韓国人の生命力と野性を目覚めさせた。5・16革命政府は、海外に人材を輸出するため海外公館に訓令を出した。
もちろん、海外移民と雇用は休戦の後から小規模で始まり、50年代末から西ドイツに看護師が就職した。第2次大戦敗戦後、目覚ましい経済発展をしていた西ドイツは人手が非常に不足した。ドイツの炭鉱にはイタリア、トルコ、スペインはもちろん、日本人の鉱夫たちまで働いていた。日本人の鉱山労働者たちは、日本が高度成長に入って徐々に本国に戻るようになる。
李承晩政府のとき、復興部の企画局長だった李起鴻は62年3月、駐西ドイツ韓国大使館に経済企画院駐在官として赴任した。彼はルール地方の炭鉱に関心を持っていろんな炭鉱会社を訪問した。炭鉱会社は、韓国の鉱山労働者を受け入れることができるが、労働庁の許可が必要だと言った。李起鴻駐在官は労働庁を訪れ、労働政策局長に言った。「韓国人は皆勤勉です。韓国の鉱夫たちは、軍服務の経験があり、よく訓練され団体生活に慣れています」
ケポヴィッツ局長は受諾した。問題は当時の駐西ドイツ大使だった。李起鴻駐在官の報告を受けた大使は、労働者たちが来たら頭が痛いと怒った。それで、このことは経済企画院に直接報告、推進することにした 63年の夏、革命政府の内紛のため、外遊に出た金鍾泌が西ドイツに行ったとき、金鍾泌はこの事情を聞き、直接ルール地方の炭鉱を訪れ採掘作業の現場まで行った。金鍾泌はすぐに朴正煕に電話をした。朴正煕もすでに報告を受けていた。(つづく)


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