海を渡った先人達(79)先人13人目 天智天皇⑥

日付: 2021年02月25日 00時00分

鈴木 惠子

 すでに煙たい存在のご意見番・鎌足はこの世を去っています。そんな状況下、何らかのきっかけで天智天皇を排除して再び天皇の座を狙ったとしても、大海人皇子の心情を想うと共感できるところがあるように思います。
額田王が詠んだ万葉集・第二巻(0151)の歌の場面を再現してみると、次のようになりそうです。
「11月23日の大友皇子の天皇即位を見届けた天智天皇は翌24日の夜、近江宮の大蔵省の倉に火を放つと額田王を含む数人の女官と共に志賀の港に急いだ。しかし停泊している天皇の船の所に来た時、莫離支によって船の周りには縄が張り廻らされていた。船を出航させようと必死で縄を解いていると、暗闇から突然飛び出して来た何者かが天皇に斬りつけた。瀕死の重傷を負った天智天皇は、9日後の12月3日に亡くなった」
天智天皇の行動は、まさに逃亡ではないでしょうか。唐側は、白村江の合戦で逃げた百済王・豊璋の行方を捜していましたが、見つけることが出来ませんでした。しかし、670年末頃に「豊璋が日本の天皇に即位している」という密告をある者から受けたとしたら、唐の上表文の内容は、『日本国天皇の筑紫都督府への出頭を求める。応じない場合は、日本への攻撃もやむなし』というものだったと推察されます。なお、唐に密告したある者とは、豊璋の排除を企図していたと思われる大海人皇子の可能性が非常に高いと考えられます。
やがて、再三の勧告にもかかわらず出頭に応じない豊璋に痺れを切らした唐側は、11月10日に対馬国の国司を通じて郭務悰ら2千人の船団の到着を報告させて圧力をかけました。唐の上表文を受け取って以来悩み続けていた豊璋は、ついに再び逃亡する道を選んだのです。白村江の戦いで敗れた際にも、妻子や臣下を置いて真っ先に逃亡した豊璋です。一国を率いるには、まだまだ未熟だったようです。百済本紀・義慈王条にも、『豊璋は、国を支配する能力がなく、ただ祭りごとを行うだけだった』と記されています。
豊璋の再逃亡を嗅ぎつけた大海人皇子は、刺客を放って豊璋を殺害させました。その理由は、豊璋の再逃亡が明らかになった場合、唐の日本への攻撃が直ちに開始されることがわかっていたからのようです。唐との熾烈な戦いを何度も味わった大海人皇子(蓋蘇文)にとって、それだけは避けたかったに違いありません。
天智天皇崩御の報告を受けた筑紫都督府の郭務悰は、唐の皇帝の国書と天皇のために造った阿弥陀仏などを奉りました。その後、近江朝廷から莫大な貢物を受け取ると、帰途に就いたのです。天皇の死からおよそ5カ月後のことでした。唐が筑紫国の領有を解いて筑紫都督府から撤退したのは、その時だったと考えられます。都督府は「大宰府」と改称されました。
額田王は天智天皇崩御後、次のような歌を詠んでいます。
万葉集・第二巻(0155)
「日本国を鎮めた我が大君の、畏れ多くも山科の鏡山にお仕えする人々は、夜も昼も声を上げて泣くばかり。こうして泣きながら、天皇にお仕えしていた大宮人たちは、散り散りに別れていくのです」


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