大海人皇子は、なぜ天智天皇を暗殺したのでしょうか。大胆な推測をしてみたいと思います。
天智天皇は、671年正月に我が子の大友皇子を太政大臣に任じて政務を任せると同時に、大皇弟の大海人皇子を第一線から退けさせたようです。また、1月13日に唐の上表文を受け取った後に、体調を崩すほど思い悩んだようです。
上表文の内容は日本書紀に記されていないので不明ですが、その後、病気を理由に大海人皇子に天皇の位を譲ることを申し出ました。しかし大海人皇子はこれを断り、僧の姿になって吉野に入ってしまったのです。
大海人皇子が吉野に向かった時のことを回想した歌と言われている雑歌が、万葉集・第一巻(0025)にあります。この雑歌は、定説では次のように読まれています。
『三吉野之、耳我嶺尓、時無曽、雪者落家留、間無曽、雨者零計類、其雪乃時無如、其雨乃間無如、隅毛不落、念乍叙来、其山道乎』
<み吉野の、耳我の峰に、絶え間なく雪が落ちている。絶え間なく雨が降っている。その雪の止むことがないように、その雨の止むことがないように、曲がり角ごとに、物思いをしながら来たのだ。その山道を>
この歌の最後の12字『隅毛不落、念乍叙来、其山道乎』を次のように読み、解釈してみました。
隅毛=高麗(高句麗)も。
不落=中国語。落ちない(滅亡しない)
念乍=中国語。突然気にかかる。
叙来=中国語。位を授けられる。
其山=中国語。その山。山shanは、上shangの発音とほぼ同じなので、上位の人(=天皇)
道乎=中国語。道=計略。乎=疑問の語気詞。このことから、(計略は何だろうか)
この解釈によると、次のようになります。
<み吉野の、耳我の峰に、絶え間なく雪が落ちている。絶え間なく雨が降っている。その雪の止むことがないように、その雨の止むことがないように、高句麗も滅亡しない。しかし、突然位を授けられたのは気にかかる。天皇の計略は何だろうか>
結果、この雑歌は大海人皇子が吉野宮に入った後に、吉野の山中に雪や雨が降り注ぐ様子を見ながら天智天皇の突然の譲位の申し出の真意を探りつつ、日本の地に第二の高句麗を建設することを決意した歌であったと推察されます。
そして、正月に朝廷の政務から後退させられた大海人皇子は、天智天皇の政権を倒して高句麗の政権を打ち建てることを考えていたようですが、突然譲位されることは、まったく予期していなかったことがわかります。
大海人皇子こと淵蓋蘇文は、金春秋(鎌足)の百済討伐に協力しましたが、討伐が成功した暁の見返りとして、日本国の天皇の座を約束させたのかもしれません。実際、豊璋の高句麗逃亡後の664年に、日本国の天皇に即位した可能性があると考えています。そうだとしたら豊璋が高句麗から戻って来た時に、鎌足に説得されて渋々天皇の座を譲ったことになります。