海を渡った先人達(76)先人13人目 天智天皇③

日付: 2021年02月03日 00時00分

鈴木 惠子

 造媛は、649年に父の蘇我大臣が冤罪で自ら命を絶った時に、心を傷つけられて死に至っています。この造媛が、644年頃に娶った蘇我大臣の次女であろうと推察されます。すると、遠智娘は誰なのでしょうか。
『ある本に、遠智娘の第1子を建皇子、第2子を大田皇女、第3子を鸕野皇女としている。また、ある本には、遠智娘を茅渟娘と言う』と記されています。日本書紀では『ある本には…』と断わりながら真実を述べている例が多々あるので、この記述を信じると遠智娘は茅渟娘とも言い、第1子が建皇子のようです。
すると、豊璋が倭国に亡命した際に伴っていた男児が建皇子と思われ、その母は遠智娘=茅渟娘という名の豊璋が百済で娶った最初の妻ということになります。なお、豊璋の母方の祖父・沙宅積徳は茅渟王でもあるので、茅渟娘と沙宅積徳は何らかの関係がありそうです。
豊璋は645年に鎌足と協力して倭国を滅亡させました。やがて、660年に母国百済が滅亡しました。その後、残党の鬼室福信が百済国の再興を企図して、斉明天皇に援軍を求めると同時に、王子・豊璋を国王として迎えることを願い出ました。豊璋が百済の故地に入った後の663年7月のことでした。鬼室福信との間に事件が発生したのです。
百済本紀に、『鬼室福信は豊璋を妬んでいた。福信が病と称して寝室に横になり、豊璋が病状を聞いて来るのを待って、捕らえて殺害しようとした。これを知った豊璋は、将帥の進言を受け入れて、福信を殺した』とあり、日本書紀には『豊璋は、福信に謀反の心があるのを疑って捕らえた。しかし、自分で決めかねて困り、諸臣に福信を斬るべきかどうかを問うた。その時、徳執得が「この悪者を許してはなりません」と言うと、福信は執得に唾を吐きかけて、「腐り犬の馬鹿者」と言った。豊璋は、兵士に命じて福信を斬った』とあります。
福信は豊璋を殺そうと企んでいたようですが、福信自らが百済王に祭り上げた豊璋を妬んでいたという理由だけで殺そうとしていたことに、すんなりとは納得できかねます。やはり【中臣鎌足】のところで推測したように、福信は鎌足に懐柔されたスパイとして豊璋の殺害を依頼されていた可能性があるように思います。
豊璋が7月に福信を斬ったことを知った新羅は、直ちに攻め入って、豊璋が籠っていた州柔城(錦江河口付近の北側の山城?)を落とそうとしました。その時、豊璋が日本に援軍を求めたので、日本軍は船団400で白村江を目指して出航しました。しかし、8月27日~28日の白村江の会戦で、日本の船団は全滅したのです。
その日、豊璋は高句麗へ逃亡し、王子の忠勝と忠志、日本の兵士たちは9月7日に州柔城で降伏しました。王子の忠勝と忠志のその後の行方とともに、二人の母が誰なのかが気になりますが、現在のところ不明です。


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