大韓民国の建国史(222)高度経済成長の前提、急増する人口増加の抑制

日付: 2021年01月27日 00時00分

 朴正煕大統領は、国内的に旧政治勢力による政争に振り回さながら韓国を対外指向国家として導いた。輸出主導の経済成長戦略をとった延長線上で、韓国人の世界舞台への進出は自然な結論であった。
憲法改正と民政移譲で成立した第3共和国発足後、韓国社会には根本的な変化が起こり始めた。韓国人が海外へ目を向け始めた。狭い韓半島を出て海外で機会を探し始めたのだ。西ドイツへ鉱員と看護師を送り、南米へ移民、ベトナム戦派兵、遠洋魚場開拓、海外建設進出などが続いた。
反面、社会主義を標榜した北韓は韓国と正反対だった。南侵戦争を起こし甚大な人的被害を被ったうえ、人口の5分の1以上が自由を求めて南韓へ脱出したため、労働力の不足は深刻だった。
金日成は労働力を確保するため、中国(満州)やサハリン居住朝鮮人たちはもちろん、北送工作を通じて、在日韓国人(朝鮮人)たちまで大挙北韓に送還して、奴隷労働力として確保した。国内旅行にも許可証が必要なスターリン主義の収容所国家だから、海外に進出するのは想像もできないことだった。
ところで、朴正煕大統領が韓民族の海外舞台への進出を積極開拓したのには、切迫した現実的な理由もあった。人口問題だった。日本の植民地から解放された1945年8月、韓半島の人口は約2500万人で、南韓が約1600万人、北韓が約900万人だったと推定される。植民地時代には韓半島から中国に170万人、日本に210万人、ソ連に20万人、その他の米州など3万人など約400万人が韓半島から移住したものと推定される。
解放後、日本、満州、その他の地域からの帰還民と、6・25戦争による民族移動などで人口の変化が激しかった。
60年韓国の人口は解放当時の南北の人口を合わせた規模の2500万人に増えた。人口増加の推移は、45~50年に年4%、50~55年には年間1%、55~60年には年平均3%ずつ増加した。
55~60年間の人口増加率(年平均3%)で注目すべきことは、6・25戦争後、結婚と出産ブームの影響で、人口増加率が非常に高くなったことだ。これは医薬品の普及で死亡率が急速に低下したのと、伝統的に高い出生率のためだった。60年には合計特殊出生率が6人で、後進国の中でも最も出生率が高い社会となった。人口増加率3%を続ければ23年ごとに人口が倍になる。
60年の人口構造をみると、65歳以上の高齢者は総人口の2・9%と非常に低いが、年少人口(0~14歳)は何と42・3%、生産年齢人口(15~64歳)は54・8%だった。平均寿命は男女共に60歳に満たない。
韓国政府は50年代後半、人口問題に対処するため、家族計画事業を検討し始めた。第3共和国は経済開発政策を本格的に推進する過程で人口問題、特に人口増加抑制の問題を貧困問題の解決次元で重要視し、家族計画事業を経済開発計画の一環として推進することになった。
62年から行った政府主導の人口増加抑制政策で、急増していた出生率は低下し始め、70年には4・07人となった。人口急増の抑制は、経済開発計画の成功に直結する問題でもある。朴正煕大統領は息子や娘と問わず2人の子供だけを産むよう訴えた。事実、韓国の人口の2倍以上の東南アジアやアフリカなど、現在人口1億を超える国々は60年代には韓国と同じ規模の人口の国々だ。
(つづく)


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