海を渡った先人達(74) 先人12人目 斉明天皇④/先人13人目 天智天皇①

日付: 2021年01月20日 00時00分

 しかし、有間皇子は、本当に孝徳天皇の子の可能性もあるのです。それは、孝徳天皇(翹岐)が、638年に武王と姉の嬪に同行して倭国に来ていた場合です。
鎌足が軽皇子(翹岐)の宮に泊めてもらった時の日本書紀の記述に、『軽皇子は、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて別殿を掃い清めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ、鎌足を鄭重におもてなしになった』とあります。もと寵妃の阿倍氏の娘とは、翹岐が武王一行に同行した有間の湯で出会った阿倍倉梯麻呂の娘・小足媛だったのではないでしょうか。
斉明天皇が本国百済の滅亡を知ったのは、滅亡後2カ月も経った660年9月5日のことでした。その翌月、百済の残党・鬼室福信が、斉明天皇に百済再興の援軍を請うと同時に、王子・豊璋を百済王に立てることを奏上しました。福信の願いを受け入れた斉明天皇は、朝廷を筑紫に移すことを決意し、661年5月に筑紫の朝倉宮に入りました。
その後、百済再興のための準備にいそしんでいた最中の7月24日に、突然崩御しました。天皇の喪が行われた8月1日の夜、朝倉山の上に鬼が現れ、大笠を着けて喪の儀式を窺っていました。人々が怪しんだその鬼は、1カ月前に崩御したはずの新羅の武烈王・金春秋だったのかもしれません。
斉明天皇の陵は、奈良県高取町車木にある越智崗上陵に治定されていますが、間違いないと考えています。

【先人13人目】天智天皇①


天智天皇(在位668~671年)の名は、天命開別と言い、「天命を開始しない」という意味です。天皇に即位する前は、中大兄皇子と呼ばれていました。その中大兄皇子は、百済の武王の王子・豊璋であろうと【斉明天皇】のところで述べました。
豊璋は、武王崩御後の百済で異母兄の太子・義慈と王位を争って敗れ、倭国に亡命しました。その後、中臣鎌足の計略に賛同して倭王・入鹿の殺害で功績を挙げたにもかかわらず、天皇の座を叔父の軽皇子(孝徳天皇)に譲り、孝徳天皇の崩御後も皇太子であったにもかかわらず実母の宝姫(斉明天皇)に譲り、斉明天皇の崩御後も天皇に即位せず、百済再興のための王として百済の故地に渡りました。しかし、白村江の合戦で新羅と唐の連合軍に敗れて、高句麗に逃亡したのです。まさに「天命を開始しない」という名前そのものです。そんな豊璋の不運で波乱の生涯を、これから辿っていくことにします。
豊璋(余豊)は、百済の武王(余璋)(在位600~641年)とその嬪の王子として626年に生まれました。武王は、631年3月に6歳の王子・豊璋を倭国に人質として差し出した後、翌632年1月に、元子(最初の子)の義慈を太子に立てています。
義慈は、599年頃の生まれとされていることから、武王が王に即位する1年前に生まれたことになります。太子に立てられた時は34歳でした。義慈の実母は、新羅の真平王(在位579~632年)の娘・善花王女と推定されていますが、実母が新羅の王女だったことが、立太子が遅くなったことに影響したのでしょうか。


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