海を渡った先人達(73) 先人12人目 斉明天皇③

日付: 2021年01月14日 00時00分

 658年11月、斉明天皇が紀の湯に滞在中のことでした。天皇の政治を批判した罪で19歳の有間皇子が紀の湯に送られ、藤白坂で絞首刑にされる事件が発生しました。この時、大海人皇子と共に妻の額田姫も天皇一行に同行していたことが、万葉集の歌から推測されます。この歌は、額田王が紀の湯で詠んだとされるたいへん難解な歌で現在も解釈が定まっていませんが、解読に挑戦してみました。
万葉集・第一巻(0009)額田王
『莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本』
これを次のように読んでみました。
『莫囂、圓隣之、大相七兄爪、謁氣、吾瀬子之、射立為兼、五、可新何本』
莫囂=中国語。騒いではいけない。
圓隣之=マンニジ(莫離支)。
大相七兄爪=多くの武器を備えて。
謁氣=中国語。怒って告げる。
吾瀬子之=私の夫が。
射立為兼=立っています。
五=厳しい表情で。
可新何本=樫の木の下で。
以上のことから、このように解釈しました。
『騒いではいけないと、莫離支が多くの武器を備えて、怒って告げています。私の夫が立っています。厳しい表情で、樫の木の下で』
この解釈から、次のような場面が想像できます。
――紀の湯の広場に、縄で縛られた有間皇子が中大兄皇子の前に引き出され、「なぜ、天皇の政治を批判したのか?」と尋問を受けている。周りを取り囲んでいる民衆は騒ぎ立てている。すると、多くの武器を備えた莫離支という武人が樫の木の下で、「騒ぐな!」と怒りながら大声で叫んでいる――
額田王は、この歌の中で莫離支を夫であると言っています。このことから、額田王の夫・大海人皇子は「莫離支」という官職に就いていた高句麗の淵蓋蘇文であることが確認できます。また日本書紀に、天武天皇は額田姫王を娶って十市皇女を生んだと記されているので、天武天皇が淵蓋蘇文であることも確認できます。
ところで、処刑された有間皇子は、日本書紀によると孝徳天皇と妃の阿倍倉梯麻呂の娘・小足媛の子とされています。また、658年11月に処刑された時19歳だったことから、640年頃の生まれと推定されます。しかしその年は、孝徳天皇が倭国に亡命した642年の2年前のことなので、孝徳天皇の子である可能性は低いようです。
有間皇子が誰の子なのかを推理するキーワードは、有間皇子の「有間」にあると考えていますが、有間は、「有間(馬)の湯」がイメージされます。すると、638年3月に倭国に来て10月から有間の湯に3カ月ほど滞在したと思われる、百済の武王の存在が浮かび上がってきます。
有間皇子の実母・小足媛が、武王一行に随行して有間の湯に行き、武王の寵愛を受けたとしたら、有間皇子は639年末頃に生まれた可能性が出てきます。639年末は有間皇子の生年640年にほぼ一致しているので、武王の子であろうと推定することも可能になります。


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