大韓民国の建国史(220)訪米弔問外交を通し確認された韓日国交正常化

日付: 2021年01月14日 00時00分

 ジョンソン大統領は、「軍部が約束どおり民政へ復帰するための手続きを踏んでおり、分別のある選挙を管理したことについて満足している」という意思を伝えた。また、「韓日両国で総選挙が終われば、国交正常化会談が早期に成功裏に決着することを望む」と語った。
ジョンソン大統領は翌日、弔問にきた池田勇人首相との要談でも同じ希望を表明した。池田首相は次のような要旨で回答したという。
「朴正煕議長の共和党が総選挙で過半数の議席を得るのは厳しいため、早期の国交正常化は難しいようだ。朴議長が過半数の議席を確保できなくても保守的で穏健な勢力と連合すれば、国内政治を安定させることができるはずで、日本としてもできるだけ早く国交正常化会談を決着する方向へ進みたい」
「大韓民国の健全な発展は、日本の安全のためにも必要不可欠な条件である。日本と自由世界は、韓国が崩壊し共産化されることを放置するわけにはいかない。したがって、日本は最善を尽くして、韓日国交正常化を推進するつもりだ」
以上の対話でもわかるように、韓日国交正常化交渉の進展は、韓国の政治的な安定とも関わっている状況だった。
朴正煕議長のケネディ大統領の葬儀への出席は、ジョンソン大統領との良好な関係を予告する青信号だった。早期の軍政終息の圧力を受けてきた朴正煕政府は、二度の公正な選挙を通じて正統性を確保することになった。朴正煕政府が推進する2大外交政策、つまり、韓日国交正常化とベトナム戦への派兵は、米国が韓国に圧力をかける問題ではなく、頼まねばならない課題だったわけだ。朴正熙が、韓米関係において重要なカードを握ることになった。
米国の経済・軍事援助という韓国に対するカードと、朴正煕の米国に対するカードが均衡をなし、韓米関係は安定し、この状況に基づいて、韓国政府は国防費の支出を減らしながら経済発展に総力を傾けるようになる。この韓米関係が悪化するのは1977年、カーターが大統領になってからだ。当時からは遠い後日のことだが、カーターはケネディが南ベトナムのゴ・ディン・ジエムに持っていたのと似たような視角で朴正煕を見て、そのため韓米関係は悪化し、ついに朴正煕大統領の死につながる。
朴正煕と同い年(1917年生まれ)だったケネディ大統領の葬儀は63年11月25日、ワシントンで行われた。星条旗以外に何も飾らなかったケネディの棺は、国会議事堂を出発し、ホワイトハウスの執務室を経て告別ミサが行われるマタイ大聖堂に到着した。朴正煕議長は、世界各国の首脳たちと一緒に歩いて霊柩の列に付いていった。告別式では、ケネディジャクリーンの結婚式の際に祝歌としてアヴェマリアを披露した歌手が、鎮魂曲としてまたその時の歌を歌った。ケネディの遺体はポトマック川を渡ってアーリントン国立墓地に埋葬された。
ケネディ大統領は最後まで朴正煕大統領を助けてくれた。総選挙の選挙戦で野党側は、韓国政府が財政安定計画を誠実に守るよう圧力をかける手段として、米国が援助資金1500万ドルを凍結したことを指摘、「朴正煕政府は、米国から孤立している」と攻撃した。だが、米政府は総選挙期間中、凍結していた援助資金のうち1000万ドルを支援すると発表したのだ。(つづく)


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