海を渡った先人達(72) 先人12人目 斉明天皇③

日付: 2020年12月12日 09時25分

 沙宅積徳=砂宅智積は、大乱に関する何らかの罪で死刑に処せられたが、身代わりが処刑されたか、あるいは死んだように見せかけて生き延びたようです。その後、倭国に渡って来たことになります。
次に、642年正月に崩御したという国主母について考えてみます。国主母とは、国王の母のことです。当時の国王・義慈の母は善花王后ですが、639年時点での王后は沙宅積徳の娘なので、その時、善花王后はすでに亡くなっていたようです。そうだとしたら642年正月時点での国主母は、義慈王の義母・沙宅王后ということになります。
その沙宅王后は、638年3月に武王と共に倭国に行き、639年に帰国したと思われる豊璋の実母である「武王の嬪」であり、帰国後に王后に就いて641年の武王の崩御後に国主母になった、という推測をどうしても捨てきれません。
このように考えると、百済国内で641年に発生した大乱とは、太子・義慈と弟王子・豊璋との王位を巡る争いだった可能性が高いと思われます。人質を解かれて639年に父の武王らと共に百済に帰国した豊璋は、武王崩御後に太子・義慈と王位を争った結果、敗れて死刑や流刑に処された、ということのようです。
その後、国主母は自らを死んだことにして息子の豊璋・弟の翹岐・父の沙宅積徳・母の吉備姫らの一族を率いて海を渡り、642年2月頃に倭国に到着しました。倭王・入鹿は、亡命を願った一族を温かく受け入れたのです。
やがて、神祇伯の家系を騙る中臣鎌足の計略に賛同した一族は、協力して倭王・入鹿の蘇我王朝を倒しました。見返りとして蘇我王朝滅亡後は、豊璋らの亡命百済王族による列島支配が約束されていたようです。日本国が成立すると、弟の翹岐が日本初の天皇(孝徳)に即位し、続けて自身も天皇(斉明)に即位し、後に息子の豊璋も天皇(天智)に即位しました。この3人の天皇は、百済の〈大佐平〉沙宅積徳の息子・娘・孫だったのです。
弥勒寺の西塔から出土した「舎利奉安記」の銘文から、隠れていた歴史の真実がおぼろげながらも浮かび上がったことに、今は、ただ感慨無量です。
母の吉備姫は、643年9月17日に亡くなり、真弓の岡の吉備姫王墓に葬られました。現在、その墓の傍らには「猿石」と呼ばれる4体の石像が配置されていますが、この「猿石」は、韓国の弥勒寺西塔の四隅に置かれている石造彫刻との類似が指摘されています。父の沙宅積徳は、茅渟王とも言い、658年1月13日に亡くなりました。葬られた墓を、奈良県高取町にある寺崎白壁塚古墳に比定したいと思います。
斉明天皇の政権で特徴的な政策は大規模な土木工事でしたが、その工事は、(1)岡本宮の造営(2)多武峯の頂上の周りを取り巻く垣の築造(3)多武峯の頂上にある二本の槻の木のほとりに、両槻宮と呼ばれる高殿を建立(4)香具山の西から石上山まで溝を掘り、舟200隻に石上山の石を積んで下り、宮の東の山に石垣を造る(5)吉野宮の造営―などでした。
これらの工事を見ていた人々は、『たわむれ心の溝工事。むだな人夫を三万余。垣造りのむだ七万余。宮材は腐り、山頂は崩れた』と誹ったのです。


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