百済の王子・豊璋は、【中臣鎌足】のところで、中大兄皇子の可能性が非常に高いことを述べました。すると中大兄の実母は斉明天皇なので、豊璋の実母も斉明天皇の可能性があります。また豊璋は武王の王子なので、武王と共に倭国に行った嬪は、豊璋の実母のように思われます。
このように考えると、武王と嬪が倭国に行った目的は、二人の間に生まれた王子・豊璋に会いに行ったということになりそうです。別れた時に6歳だった豊璋は、13歳に成長していました。7年ぶりに我が子と感動の再会を果たした武王と嬪は、639年に百済に帰国したと思われます。これに関連して、2009年に扶余の南に位置している益山の弥勒寺の西塔を発掘した際に発見された、「舎利奉安記」に刻まれている銘文について考えてみたいと思います。
そこに記されていたのは、『我が百済の王后は、佐平・沙宅積徳の娘である』『己亥年(639年)正月29日に舎利を奉安した』などというものでした。この発表に、韓国中で大きな衝撃が走りました。なぜなら益山の弥勒寺は、即位前の百済の武王が新羅から連れ帰った真平王の娘・善花夫人の発願で創建され、真平王も新羅から工人を派遣して援助したことが『三国遺事』に記されているので、弥勒寺の創建伝承は、根底から覆されることになるからです。そして639年時点での王后は善花王后ではなくて、沙宅積徳の娘であると記されているのです。
弥勒寺址は、発掘調査でその全容が明らかになっています。それによると、回廊を巡らした塔と金堂の組み合わせの中院を挟んで東西に、中院よりも一回り小規模な同じ形式の塔と金堂が配置されています。そして、中院の背後にある講堂をつないで全体が回廊で囲まれています。これは他に例がない極めて特殊な伽藍配置ということです。また中院の塔は木造ですが、東西の塔は石塔となっています。
これらのことから推測されるのは、600年頃に善花王后の発願で中院が最初に創建されて、639年に沙宅王后の発願によって、新たに中院の東西に同じ形式で伽藍が創建されたということです。
沙宅王后は誰なのでしょうか。まずは、王后の父・〈佐平〉沙宅積徳という人物について考えてみたいと思います。
日本書紀の皇極天皇元年(642年)2月の記録に、『百済に遣わされた使者が帰国して、百済国内の大乱を告げた』『百済の使者が、641年11月の大佐平・智積の死、642年正月の国主母の崩御、更に、弟王子と兒(男児)・翹岐及びその母と妹の女子4人・高名の人々40人余の島流しを告げた』とあります。このことから、641年3月の武王の崩御後、百済国内で大乱が起きたこと、11月に大佐平・智積が死去したことがわかります。しかし、大佐平・智積は生存していて倭国に出現し、本姓が砂宅智積であり、左大臣・巨勢徳太でもあることを【孝徳天皇】のところで考証しました。
これらの経緯と名前の類似から、武王の王后の父・佐平・沙宅積徳と大佐平・砂宅智積(左大臣・巨勢徳太)は、同一人物であろうと推定できそうです。