碑文には、『甲寅の年(654年)の正月九日、奈祇城の砂宅智積が、人生の無常を嘆き、宝塔を建立した』と記されているので、この碑は、智積(巨勢徳太)が、本名の砂宅智積の名で建立したものと推定されます。宝塔とは、故人の霊の成仏を願い供養するために建てるものです。智積は、孝徳天皇の最期を看取ったようです。
654年1月9日に宝塔を建てているので、孝徳天皇は、その日付以前に亡くなっていることが確認できます。実際の崩御日は、653年10月10日だったのかもしれません。
現在、孝徳天皇の陵は、大阪府太子町にある径約32メートルの円墳・山田上ノ山古墳に治定されていますが、間違いないと考えています。
【先人12人目】斉明天皇①
斉明天皇(在位655~661年)は、舒明天皇(在位629~641年)の皇后・宝皇女であり、舒明天皇の崩御後、皇極天皇(在位642~645年)に即位したとされています。しかし、642~645年は倭王・入鹿の治世であったと推定されるので、皇極天皇紀は創作されたものと考えられます。
斉明天皇の名は、天豊財重日足姫と言います。その名から、充分な財産を持っていた美しい女性だったようです。また斉明天皇は、初め高向王に嫁して漢皇子を生んだとされています。高向王についてはよくわかりませんが、漢皇子は孝徳政権で国博士(国政の顧問)になった高向史玄理と思われます。
すでに【中臣鎌足】のところで斉明天皇の概要を述べましたが、ここでは、より詳しく実像に迫ってみたいと思います。まずは斉明天皇が倭国に来た時期を、日本書紀と百済本紀の記述から探ってみることにします。
・百済本紀、武王三十九年(638年)3月『王與嬪、御泛舟大池』<王と嬪が大池に舟を浮かべた>
・日本書紀、舒明天皇十年(638年)10月『有間の湯に幸行された』十一年(639年)1月『有間から帰られた』、7月『百済川のほとりを宮の地とし、大宮と大寺を造った』
・百済本紀、武王四十年(639年)10月『使者を遣わし、唐に金の甲を献上した』、四十二年(641年)3月『武王崩御』
これらの記述の中で最も気になるのは、百済本紀の武王三十九年(638年)3月『王と嬪が大池に舟を浮かべた』というものです。これは、比喩的に表されていると考えられます。大胆な推測になりますが、『百済の武王と嬪は、638年3月に、海を渡って倭国に行った』ということのようです。
武王と嬪が倭国に行ったとしたら、その目的は何だったのでしょうか。638年当時、倭国には人質として差し出された武王の王子・豊璋が滞在していました。日本書紀に『631年3月、百済王・義慈は、王子豊璋を人質として送って来た』とあり、豊璋は義慈王の王子と記されています。しかし、当時の百済王は、武王(在位600~641年)です。義慈王の王子というのは書紀の編者の誤記と思われますが、何らかの作意も感じられます。