韓半島を解放した米国は、韓国の内政に深く関与してきた。ところで米国は、東西冷戦の最前線である韓国で、反米と共産主義に対しては神経を使ったが、韓国の自由民主体制を守る唯一の法的装置である国家保安法は批判した。特に、容共的な雰囲気の米国務省は、人権を掲げ、自由民主体制の抹殺を追求する敵との戦争中の大韓民国の現実を無視し韓国政治を管理しようとした。
6・25戦争中も、李承晩大統領を除去しようと試みた米国は、休戦後、間もなく勢力を回復した共産勢力を目睹しながらも、曺奉岩の死刑に反対した。共産勢力の巧妙な挑戦を看破できずに寛大に対した、米国のそのような姿勢は変わらず、東西冷戦終結後、韓国政治の急速な左傾化を助長した。後の話だが、金大中が大統領になって、米国の世界戦略において決定的に重要な韓国が、親中・左翼国家への道を開くことになったのも、金大中の正体を知らなかった米国当局が、1980年代に彼を救ったからだ。
いずれにせよ、11月26日に行われた第6回総選挙は、国会が両院制から一院制に変わり、定員が175席となり、初めて全国区の比例代表制が導入された(地域区131席、全国区44席)。投票率は72・1%だった。共和党は総議席の62・8%である110議席(地域区88隻、全国区22席)を獲得し、絶対多数議席を占めた。ソウルを除く全国で圧勝した。
民政党が41議席(地域区27席、全国区14席)を得て第1野党となった。民主党は14議席を得て群小政党に転落した。国会の任期は大統領の任期開始日と同じ12月17日から開かれ、67年6月30日に終了することになった。
朴正煕は、安定した権力基盤を確保した。近代化のための本格的な経済開発はもちろん、建国以来、続いてきた日本との国交正常化も推進することになった。朴正煕大統領は、第5代大統領に就任した12月17日、国家安全保障会議を設置した。
もちろん、朴正煕大統領は、62年から始めた経済開発5カ年計画を推進し、あらゆる困難を克服しながら、道路、ダム、発電所、港湾など社会間接資本に集中投資を強行した。62年に政府総投資の53・3%を、63年には38%、65年には39・3%、66年は37・1%を投資した。このため、この期間中、建設業の売上高の年平均成長率は17・4%を記録した。国民総生産の成長率の2・3倍だった。
朴正煕の疾風怒濤のような開発は、国土の風景を変え始めた。日本は韓半島を併合した後、アジア大陸への膨張という戦略の一環として韓半島を開発し改造した。つまり、韓半島は帝国日本の大陸への前進基地だった。だが、朴正煕は、共産大陸と完全に断絶した島国として、大韓民国の遠大な近代化設計に基づいて国土を開発した。
朴正煕が大統領に就任した直後の63年12月21日、韓国人123人が金浦空港で飛行機に乗った。西ドイツに行く鉱夫の一陣だった。ドイツへの16時間の飛行を待つ彼らは、一生の夢を実現しようとする情熱であふれていた。石油危機と外国人労働者が社会問題となったドイツが、外国からの労働力輸入を中断する77年まで、ドイツに行った韓国人の鉱夫は7932人、看護師は1万226人だった。
よく韓国の近代化は日本をモデルにしたと言われるが、朴正煕大統領は当初からドイツを国家発展のモデルにしていた。
(つづく)