海を渡った先人達(69) 先人11人目 孝徳天皇③

日付: 2020年11月18日 00時00分

 11月に入鹿王の太子・古人大兄とその一族が一掃されると、12月に、都を難波の長柄の豊碕(現在の大阪市都島区?)に移すことを決定しました。その後、646年1~8月にかけて『改新の詔』を発したのです。主な政策は次のとおりです。

(1)昔の王たちが建てた各地の土地を廃止し、替わって食封などをそれぞれに応じて給与する。
(2)国司・郡司・防人・駅馬・伝馬などを置き、地方の土地の区画を定める。
(3)初めて、戸籍・計帳・班田収授の法をつくる。
(4)郡の少領以上の者の姉妹や子女で容貌端正の者を差し出させて采女とし、天皇に仕えさせる。
(5)厚葬と旧俗(殉死、殉死の強制など)を廃止する。
(6)官に収め計測した田地は、口分田として民に公平に配給する。

 新政権が落ち着くと、中臣鎌足(金春秋)は、おそらく東国の故郷に帰るという口実で、647年初頭までに新羅に帰国しました。鎌足のいない間の孝徳政権の実績は、次のようなものでした。

・649年正月に冠位十九階を制定して、八省百官の制度を創設。
・649年3月17日の左大臣・阿倍倉梯麻呂の死と、謀反の罪を着せられて自ら命を絶った3月25日の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の死を見届けるや、翌4月に忠臣・智積(巨勢徳太)を臣下の最高位の左大臣に任じた。
・650年1月に長門国から祥瑞(めでたいしるし)の白雉を献上されたことに因んで、元号を「大化」から「白雉」に替えた。
・651年6月頃に新羅使が筑紫に着いた際、唐の服を着ていたとして新羅使らを追い返した。更に、左大臣・巨勢徳太は孝徳天皇に新羅の討伐を進言した。
・652年9月、7年余りかけて造営されていた難波の長柄豊碕宮が完成した。
・653年8月、百済の義慈王と通好した。(日本書紀には記載されていないが、百済本紀・義慈王十三年に『秋八月、王與倭國通好』と記されている)

 このように、孝徳政権は、忠臣・巨勢徳太(智積)の補佐を得て盤石になっていました。そして、流刑に処されて恨んでいたと思われる本国の義慈王とも関係を修復し、改めて百済と日本の関係を強固にして、過去の政権に倣って新羅への反発を強めていったのです。
そんな状況下、皇太子・中大兄と大海人皇子が、天皇の反対を押し切って、一族・百官らを率いて飛鳥の河辺行宮に移ってしまうという不思議な事件が起きました。日本書紀には詳しい時期や理由については記されていません。しかし、この事件の背後には、意のままにならなくなった孝徳天皇の排除を企んだ金春秋(鎌足)の姿が見え隠れしています。

 皇太子らの真意がわからずに、広い宮廷で思い悩む焦燥の日々の中、孝徳天皇が正殿で息を引き取ったのは、654年10月10日のこととされています。しかし、実際は、前年の653年に崩御していたと考えられます。その根拠は、1948年に韓国の扶餘邑官北里の道路で発見された『砂宅智積碑』の碑文にあります。


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