ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語(42)死と隣り合わせの厳しい北の冬

「北送事業」から61年
日付: 2020年11月18日 00時00分

 越冬キムチは立冬前後に作り、その量は次の年の3月ぐらいまでは食べられるように準備しておかないと本当に困るのだ。今は冬の気温が零度以上の日が多く、少しの冬野菜があり、そこに中国からの密輸入で白菜などが入ってきて市場で売っている。このような冬野菜は値段が高く、それを買って食べられる人は限られている。
北朝鮮で一般住民は、特に冬場は食べ物が少なく奪い合いが日常になっている。平壌の幹部らと高位役職者らは、冬でもハウスの野菜と中国や東南アジアから輸入した果物まで支給され、キムチも夏の海水浴時まで食べる量を作っていた。
越冬キムチは北朝鮮の一般住民にとって、極寒の中で生きるか死ぬかの死活問題であり、泥棒する側と守る側の必死さは戦場同様だった。しかし、この戦いで勝つのは大体、泥棒の側であった。
キムチを盗まれた家から聞こえてくる泣き声は、家族が亡くなった時と同じ悲痛さで心が痛くなった。冬の主な盗難品はキムチだけではなかった。
無煙炭や薪、服なども状況はキムチと同じで住民同士の飢えや寒さをしのぐための必死さは、盗む側と盗まれる側の気持ちを理解した上でのことで両方とも涙を流した。この良心の涙も1980年代までで、それ以降は盗みが英雄視され、泥棒して捕まえられても堂々としていた。軍隊は泥棒しても威風堂々だった。
軍を除隊したある人たちは群れを作って毎日泥棒をしていた。彼らが掲げている大義名分は、国家は昼間に一般住民を公然と泥棒していて偉そうだから、我らは夜中に泥棒して贅沢に暮らす「深夜国家」だとの理屈だった。
彼らは捕まえられても恥ずかしさなどは全くなく、むしろ泥棒しないで飢えと寒さに苛まれて死んだ人たちを非難していた。
この泥棒集団たちは捕まえられても賄賂を渡して2、3日後にはまた活発に動いていた。捕まえる側は、自分たちの手に負えない高位職以外のところで泥棒をするよう彼らに助言して、泥棒して得た収入を分け合っていた。
身分が低く何の後ろ盾もない一般住民は、食事抜きで仕事をするのが普通だった。日本に来て一部の人から1990年代以前は、北朝鮮は裕福な国だったとの話を聞くと、私は驚く。1970年代生まれの私の記憶ではお腹がいっぱいの気分は全く想像すら出来なくて、お腹が空いてつらい気持ちはよく知っている。
1980年代に国からの配給がどんどん断ち切れて三度の食事に事欠く時が多かった。中学校2年生から地域選抜組に入り、11月末から12月初めまでの全国学生競演大会の準備で夜中まで勉強する11月には、あんまりにもお腹が空いて生のじゃがいもを食べていた。お腹が空いて我慢できないと最初は水を飲むが、水で我慢できない時がたまにあった。朝から忙しくて食べる物がない日は、普通に朝から何も口に入れてないから夜中になると凄くお腹が空いてくるのだ。
特別班の宿題も多くて、夜中に台所で家族分の物であることを知りながらじゃがいも一個を生で食べていた。食べるときは何にも考えずに食べたが、翌朝は罪悪感で大変だった。母がじゃがいも1個が減っているのを知っているのに何にも言わないから、気持ちがとても重かった。自白すると、私の罪悪感を減らすためにたまに叱られた。
普通の国では、餓死は宰相になるよりも難しいと言われる。それを北朝鮮住民は普通だと思って、凍死や飢え死にやガスで亡くなった人を埋める土も凍っていて、より悲しかった北朝鮮の冬であった。
北朝鮮はみんなが平等な偉大なる民主主義国家で人民が国家の主人公だとずっと宣伝しているが、一般住民は金氏一族と平壌市民と高位幹部らに奉仕するため必要な存在であって執権者たちの奴隷であった。
北朝鮮の真冬は本当に大変で、今も思い出したくないつらい記憶である。(つづく)


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