(3)647年、老人らは語り合って、このところ毎年ねずみが東に行くのは、柵が造られる前兆だったのかと言った。
(4)654年1月、夜ねずみが倭の都に向かって走った。紫冠を中臣鎌足に授けた。
(5)654年12月、ある老人は語って、ねずみが倭の都に向かって行ったのは、都を移す前兆だったのだと言った。
(6)662年4月、ねずみが馬の尻尾に子を産んだ。僧の道顕が占って、北の国の人が南の国に付こうとしている。恐らく、高麗が敗れて日本に付くだろうと言った。
(7)666年、この冬、都のねずみが近江国に向かって移動した。
このねずみは、大化の改新の後に出現し、667年3月に都を近江に移す前で姿を消しています。ねずみの鳴き声を文字にする時は、一般的には「チュー・チュー」ですが、実際のねずみの鳴き声は、「チュンチュン・チュンチュン」と聞こえます。鎌足の本名「春秋」の発音は「チュン・チュ」なので、ねずみの鳴き声とほぼ同じです。どうやら、ねずみには金春秋の姿が投影されているようです。
668年1月、完成した近江宮で、43歳の皇太子・中大兄(豊璋)は、ついに日本国天皇の座に就きました。豊璋の高句麗逃亡後に、日本国の天皇に即位していたかもしれない蓋蘇文(大海人)を説得して、生還した豊璋を温かく迎え入れ天皇に即位させたとしたら、鎌足(春秋)の人間としての器の大きさを感じます。
また、その年の9月26日に、鎌足が、新羅王・法敏と大将軍・金〓信それぞれに、船一艘などを贈ったことが日本書紀に記されています。これは、高句麗の討伐に貢献したことへのご褒美だったと考えられます。なぜなら、その5日前の9月21日は、唐と新羅の連合軍がついに高句麗を滅ぼした日だったからです。本来ならば新羅による韓半島統一が実現した日でしたが、唐は高句麗の各地にも都督府を設置して唐の領土に組み入れてしまいました。
669年5月5日のことでした。蘇我王朝の恒例の行事であった節句の薬狩りが天智天皇の時に採用され、鎌足は前年の蒲生野に続き、今回の山科野での薬狩りにも群臣と共に同行しました。その時、何らかの原因で落馬し、胸や背中を強打して骨折する事故が起きたようです。
その後のおよそ5カ月間は、身動きもままならず床に臥す日々でした。その間、正妻の鏡姫は鎌足の快復を願って山科寺を建立しました。学者の田辺家に預けられ勉学に励んでいた二人の間に生まれた11歳の次男・史(不比等)も、度々父を見舞ったことでしょう。しかし、その願いも届かず、その年の10月16日に激しい衰弱の末に永遠の眠りに就きました。
天智天皇は、鎌足が亡くなる6日前に病床を見舞われた時、「望むことがあるなら、何でも言うがよい」と言われました。鎌足は、「私のような愚か者に、何を申し上げることがありましょうか。ただ一つ、私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては、お国の戦争のためにお役に立てず、死にあたって、どうして御厄介をおかけできましょうか」と答えています。