日本語の「さん」は対等の関係を示します。上の者が下の者に対して「さん」付けで対応すると、下の者を一個の人間として尊重しているということを意味します。
私の母親は日本人でしたので、改まったときは、私を「さん」付けで呼びました。また、私に対して書く手紙は全てが敬語で書かれていました。しかし近所の朝鮮人のおじさんやおばさんは私を呼び捨てにし、常に命令口調でした。朝鮮人のおじさんやおばさんが使う言葉は、日本語でしたが、言霊は朝鮮語でした。彼らは頭の中にある朝鮮語を日本語に置き換えただけの日本語を使っていました。日本文化に沿った日本語ではなく、朝鮮語の言霊を持った日本語でした。
そんな日本語は相手を見下した出鱈目なものでした。韓国のかの字も知らなかった私はそういう事情があるということを知りませんから、朝鮮人は常識がない、日本語の使い方も知らん、と一人で腹を立てていました。
韓国語を学んでみると、最初にこの「さん」に当たる言葉がないことに苦しむことになります。親戚をさん付けで呼びたくても、言葉がないのです。上か下か、です。一日でも早く生まれたものは「ヒョン(兄さん)」です。相手に対し上に置けるほどの尊敬の念も抱けず、かといって下に置く気にも成れず、という親戚に対しては、対等の呼称を使いたいのですが、その言葉がないのです。つまり韓国社会は、対等の関係が存在しない社会だったのです。
若かった私はある人に言いました。「これは韓国儒教の影響で、韓国の儒教はろくなものではない」と。するとその人が言いました。「そんな儒教でもあったから、韓国人の出鱈目はこの程度で済んでいる。これで儒教もなかったなら、韓国人は収拾がつかない民族になっている。この程度で済んでいるのは儒教のお陰だよ」慧眼である、と思ったことです。
さて、「さん」ですが。私が会計士になって入った会社は、外資系だったこともあり、全員が「さん」付けで呼び合っていました。昨日合格した人間でも、三十年会計士をしている人間でも、同じく「先生」であり、呼称は「さん」でした。一般の会社では上下関係の呼称が普通ですから、特異な会社で過ごしたことになります。そんなお互いを尊重する「さん」と言う呼称は、日本文化の優れた点であると思いました。
なぜ韓国では対等の関係が存在しないのか、と考えてみると、やはり歴史の特殊性に行き当たります。
韓国は常に侵略を受けていたので、平和なときでも落ち着きませんでした。災難が去って平和がやって来ても、直ぐに次の侵略がやって来ます。それで韓国人は、平和な時代でも難民の心のままで生きていました。パルリ、パルリ(早く早く)というのは韓国人の口癖ですが、これは韓国人の心が平和な時でも難民の心のままであることを示していると思います。私が若い頃は、ソウルの町を歩いていて、韓国人か日本人か直ぐに見分けられました。そのぐらい両国民の顔つきは違っていました。今の若者は日本人か韓国人か見分けがつきません。それだけ難民の切実さが薄らいで来ているのだろうと思います。平和が続けば、韓国人も落ち着きを取り戻します。
難民の心のままで生きると、自分さえよければいいという行動をしがちになります。李朝時代の両班が、庶民から搾取し続けたのは儒教のせいもありますが、次の災難に備えて自分さえよければいい、という行動をしたからだろうと思います。しかし現代において難民の心で生き、自分勝手なことばかりしていると、世界から信頼されなくなります。結果として世界経済から取り残されます。ですから、意識して韓国社会から難民の心を消すようにしなければなりません。そのためには平和が続かなければなりません。
李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』『鬼神たちの祝祭』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。