バーガー米大使は、米国政府が取るべき措置として、(1)軍事政府の財政安定政策が十分でないという理由で、1500万ドルの援助執行を保留とした決定を固守する(2)証券操作事件の自白を得るための拷問など、革命政府の過誤に対する米国メディアの関心を刺激する金鍾泌の帰国への反対を明確に表明するなどを建議した。
金鍾泌は、米国側が自分を徹底牽制した当時の状況について次のように述懐したという。
「その頃、バーガー大使とCIA韓国支部は、間違った諜報に依存していた。朴正煕議長をエジプトのナギブ、私はナギブを追放したナセルのように誤認したようだった。私たちを反米民族主義者と断定した先入観は、その後も続いた。バーガー大使は南ベトナムで副大使を務めたが、南ベトナムで会ったときに、自分は韓国の状況を誤判していたと告白しましたね」
金鍾泌はその頃、パリに滞在していたが、米CIA要員が自分を追跡していることを感じたという。家賃80ドルのアパートに滞在したが、一週間程度の旅行をして帰ってきたときには、室内装飾などが変わっていたという。その後、金鍾泌が米国に寄ったとき、後にCIA局長になるコルビーが、アジア担当局長として出迎えたので、「あなたたちは、パリでも私を追跡したね」と言うと、コルビーは「もうあなたがどういう人なのか分かったので、今日はそんな必要はないでしよう」と笑ったという。
金鍾泌の外遊によって、朴正煕の周囲の空白を埋める新しい政治参謀が登場した。その中で最も重要な人物が、後に金大中拉致事件を起こして朴正煕大統領を苦境に陥れる李厚洛最高会議公報室長と、嚴敏永最高会議議長顧問(後に内務長官、駐日大使)だった。
駐米韓国大使館武官出身の李厚洛は、国防部直属の情報機関で米CIA韓国支部との協力窓口の役割をした。張勉総理直属の中央情報委員会の責任者だったが、5・16後に投獄された。金鍾泌は彼を解放し英字新聞である「コリアン・リパブリック」を発行していた大韓公論社社長に任命した。
李厚洛は、朴正煕議長を至近距離から諮問・建議ができる立場になった。軍の情報分野で長く勤めた李厚洛は、最高会議の代弁人として記者たちを相手しながら世の中に対する正確な情報をもとに明晰な状況分析能力を発揮した。
厳敏永は慶北慶山出身で、朴正煕より2歳上で、大邱高普(現慶高校)を卒業した。
後に朴正煕大統領の直系となる共和党の実力者たちの中の2人(白南檍政策委議長、金成坤財経委員長)と厳敏永は、大邱高等普通学校の同期生だ。日本の九州帝国大学在学中に高等文官試験行政科に合格、20代に全北任實と茂朱の郡守を務めた。解放後、大学の法学部教授を務め、5・16の時は参議院議員だった。
朴正煕は革命成功の後、旧政治家たちの中で厳敏永を顧問として抜擢した。厳敏永も朴正煕と同じように、解放と建国の激動期に運命的に巻き込まれた「左翼前歴」に苦しめられた。
厳敏永は第3共和国で内務長官を2期務め、1967年9月に駐日大使に任命され、在任中の69年12月、死亡した。
共和党結成と民政移譲過程を通じて、朴正煕時代の人材たちが集まるが、特に慶北出身者が多く集まり始める。厳敏永、金成坤、白南檍、李孝祥(後に国会議長)、朴浚圭(共和党議長霜)、申鉉碻(首相を務め)など、全員が慶北高校の前身の大邱高普の出身だ。慶北は人口が多いが名門が慶北高校1つだけだった。 (つづく)