第一の目的、上表文の返事とは、日本が唐の領土になることに同意するか否かの回答だったと考えています。これについて、鎌足と大海人の二人で充分に協議を重ねた結論は、唐の領土の一部になることはやむを得ないが、筑紫のみに留めさせるというものだったと推察されます。郭務悰らが朝廷に再び訪れた20日後に、菟道(宇治)で盛大な「閲兵」を行ったことが日本書紀に記されていますが、この日のために数万人規模で集められた屈強な男たちを整然と並ばせたのかもしれません。このような日本の兵力の実態を唐側に見せつけることによって、筑紫のみの領有で納得してもらう心づもりだったようです。
結果、この閲兵を見た郭務悰らは筑紫のみの領有に同意するとともに、翌年の山東の泰山で行われる「封禅」という、皇帝が天と地を祭る祭典への参加を求めました。日本は三人の使者を派遣することになり、筑紫に都督府(後の大宰府)が設置されたのです。
翌666年の封禅は、唐の領土が拡大したことを祝うものになりました。熊津都督の劉仁軌の伝記『旧唐書・劉仁軌伝』に、『仁軌領、新羅及百済・耽羅・倭、四國酋長赴會、高宗甚悦』<仁軌が領有した新羅・百済・耽羅(済州島)・倭(筑紫)の四国の酋長が赴いて来て会った。高宗は、たいへん喜んだ>とあることから確認できます。
第二の目的、百済の敗残兵の討伐は、唐に帰順した百済人の将軍・禰軍によって実行されました。これは、近年中国で発表された禰軍(678年没)の墓誌の拓本の一節『于時日本、餘噍據扶桑以逋、誅』<その頃(665年)の日本に、百済兵の生き残りが扶桑(東国)に逃げて立て籠もっていたので、討伐した>との記述から確認できます。当然、豊璋の捜索も行われたと思われますが、発見できなかったようです。
第三の目的、鎌足の長男・定恵の帰国は『定恵は、唐の使者・劉徳高らの船に乗り、665年9月に百済経由で帰国した』との、『貞慧伝』の記述から確認できます。
666年1月に高麗(高句麗)が調を奉って来た2カ月後のことでした。中大兄皇子が5年ぶりに日本書紀に登場しました。645年に共に蘇我入鹿を斬った佐伯子麻呂の病を見舞ったというのです。高句麗に逃げていた豊璋が、高句麗の使者と共に日本に帰って来た可能性がありますが、すると豊璋は中大兄なのでしょうか。
中大兄の父である舒明天皇が641年に「百済宮」で崩御した際、「百済の大殯」が執り行われたとあるので、舒明天皇と百済との強い関連が推測されます。豊璋の父・百済の武王も同じ641年に崩御していることから、舒明天皇には、百済の武王の姿が投影されているようです。そうであれば中大兄と豊璋が同一人物である可能性は、限りなく高いと言わざるを得ません。
ところで、日本書紀を何度か読み直していた時、ある不思議なことに気づきました。645年冬から始まって666年冬までの21年間にわたり、7度「ねずみ」が登場しているのです。
(1)645年12月、老人たちは語り合い、春から夏にかけてねずみが難波のほうに向かったのは、都を移す前兆だったと言った。
(2)646年、越国のねずみが昼夜連なって東に向かって移動した。