海を渡った先人達(64) 先人10人目 中臣鎌足⑪

日付: 2020年10月14日 00時00分

 日本にいる中大兄らの動向が気がかりになっていた金春秋は、何としてでも日本に行かなくてはなりませんでした。後事を太子の法敏に託して新羅を去ったのです。
661年7月、斉明天皇が崩御しました。しかし皇太子・中大兄は、なぜか天皇に即位しませんでした。その10カ月後、日本にいた百済の王子・豊璋は、百済国を再興するためという百済の残党・鬼室福信の請願で百済王に祭り上げられて、妻子、弟の塞上、軍隊と共に半島に渡って行ったのです。
豊璋は、631年に倭国に人質として差し出された百済の武王(在位600~641年)の王子ですが、すでに唐の領有地となった百済の故地に入って行くのは、たいへん無謀と言わざるを得ません。これらのことにも春秋(鎌足)が関与し、鬼室福信は春秋のスパイの可能性があると考えています。やがて豊璋の去った日本に、淵蓋蘇文も高句麗を3人の息子たちに託してやって来ることになります。
その頃、新羅では662年正月に文武王が「楽浪郡王・新羅王」に冊封され、翌年の4月には「雞林州大都督」に任命されて、百済に続き新羅も、唐の領土に組み込まれてしまいました。
その5カ月後の663年8月、白村江で唐と新羅の連合軍と戦った百済と日本の船団は全滅しました。この時『百済王・豊璋は、数人と船に乗り高句麗へ逃げた』と日本書紀にあり、百済本紀には『扶餘豊は、身に着けていた物を脱ぎ捨てて逃げた。高句麗に逃げたとも云う。扶餘豊の宝剣を獲得した。王子の忠勝・忠志、倭人らは降伏した』と記されています。
百済王・豊璋と日本の動きは、すべて鎌足(春秋)によって掌握され、情報は逐一、新羅側に通報されていたのですから百済再興の企ては鎌足(春秋)による豊璋の排除が目的だったと推測しています。
その後、日本では664年2月に、大海人皇子が冠位の増設と氏上・民部・家部などを設け、5月に唐の占領地の百済にいた鎮将・劉仁願が日本に郭務悰らを遣わして上表文を奉り、10月に鎌足が郭務悰らに品物を贈り饗応しています。そして唐の使者らが12月に帰国の途についた後に、長門国と筑紫国に城を築かせて西海の防備を固めました。
この状況から判断すると、大海人(蓋蘇文)と鎌足(春秋)の二人が、当時の日本の最高権力者だったようです。更に言えば664年を《白鳳元年》として、蓋蘇文が天皇に即位していた可能性もあります。韓半島全域がじわりじわりと唐の領土に組み込まれていく中、唐は日本にも触手を伸ばしていたようです。日本に移住した金春秋と淵蓋蘇文は、力を合わせて唐の攻撃にも耐えられる強固な国を造りつつあったのかもしれません。
いったん唐に帰国した郭務悰が、9カ月ぶりに劉徳高・禰軍ら250人余りを率いて再び来日したのは、665年9月のことでした。その目的の第一は、昨年の上表文の返事を得ること。第二は、日本に逃げ込んでいた百済の敗残兵を征伐すること。第三は、鎌足の長男・定恵を日本に連れて来ることだったと推察しています。


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