大韓民国の建国史(211)先進国や国際機関の忠告より技術官僚を信頼した朴正煕

日付: 2020年10月14日 00時00分

 革命政府の経済企画院はマクロ経済的接近を選び、商工部はミクロ的な経済政策を追求した。朴正煕は、経済官僚ではなく技術官僚たちを選択した。朴正煕は経済政策において、当初は経済企画院に依存したが、徐々に商工部を信頼するようになった。これまで、経済企画院が韓国の圧縮成長の主役と言われてきたが、実際には商工省の役割がもっと大きかった。  特に金貞濂が1969年10月、大統領秘書室長となってからは、その傾向がもっと強くなった。
革命政府は、米国(先進国や国際機関)のアドバイスを盲目的に追従せず、常にそれに逆らった。そして、まさにこれが韓国の成功の秘訣だった。よく韓国の近代化は日本をモデルにしたというが、朴正煕はドイツ(西ドイツ)を国家発展のモデルとした。
朴正煕は、最初は教導資本主義という名目で、産業に対する国家の介入を通じての経済開発を計画した。
朴正熙が62年に書いたものを見ると、教導資本主義とは、「所得の均等と経済の公益」を保障する経済秩序を創造するための経済運営体制だった。朴正煕は均等分配に対する平等主義的な理想と自由競争を同時に支持することができると信じていた。同時に、朴正煕は国家発展の過程で政府の役割は、「自由競争を通じてすべての人々に平等な機会を保障」するための「産業経営者」または「アドバイザー」と見た。
いずれにせよ、政治活動再開と共に、革命政府に対する言論の批判が激しくなると、朴正熙はマスコミに不満を爆発させた。
「言論は上手くやっていることは黙殺し、上手くいかないことだけを誇張する」と批判した。2年の間に経済開発計画着手、蔚山工業センター着工、各種構造改革、外資の導入、自立鼓吹など跳躍への足場を作ったと自負した。
5月20日、朴正煕は江原道黄池(今の太白市)で荒池本線の開通式に出席した。革命政府の力点事業だった。桶里と深浦里を連結する8・5キロメートルは11個のトンネルを掘削する難工事だった。21カ月の工事の末、完成したことで、この地域からの石炭輸送線が完成し、中央線がソウルの清涼里駅から江原道江陵まで連結された。
執権期間を延長、政治的安定が保障されれば、近代化の課題を成し遂げられると思っていた朴正煕としては、言論と野党の全面批判と否定は耐え難いものだった。朴正煕はよく「祖国の近代化は、(朝鮮時代の)士・農・工・商の身分秩序を商工農士に変えるのを意味する」と言った。
朴正煕は5月21日、陸軍首脳部を交換した。自分の民政参加に反対していた朴炳権国防長官を金聖恩へと交替させた朴正煕は、民政への参加を促してきた閔機植1軍司令官を陸軍参謀総長に任命した。朴炳権と歩調を合わせてきた金鐘五参謀総長を実権のない合同参謀議長に送り、1軍司令官には張昌国2軍司令官を、2軍司令官には金容培陸軍参謀次長を任命して、軍部を完全に掌握した。
一方、共和党は困難に直面した。朴正煕の心が共和党から離れたようだとの雰囲気が広がり、攻撃されたからだ。新しい汎国民政党の結成を支援していた金在春情報部長は、共和党の核心人士たちを捜査、逮捕した。だが、「軍民合作」という名分を出した汎国民政党は現実的には巡航できなかった。
軍事革命勢力と、彼らが軽蔑していた旧政治家たちが手を握り革命精神を継承する政党を作ることはそもそも矛盾だった。共和党のようなしっかりとした組織を作ることは、当初から不可能なことだった。(つづく)


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