海を渡った先人達(63) 先人10人目 中臣鎌足⑩

日付: 2020年10月07日 00時00分

 658年11月9日に、斉明天皇の政治を批判した罪で、孝徳天皇の皇子とされる有間皇子が紀の湯の藤白坂で絞首刑にされています。
有間皇子が百済討伐を達成する過程において危険な人物と認識されたとしたら、この事件にも金春秋と淵蓋蘇文が関わっていたことになります。
金春秋は、淵蓋蘇文に百済討伐の協力を仰いでいましたが、その最後の要請が660年の訪日でした。
『1月、高麗の使人・乙相(南方を担当する宰相)賀取文ら100人が筑紫に着いた。5月、賀取文らが難波の館に着く。7月16日、賀取文らが帰途についた』と日本書紀にあります。
この来日の期間が、金春秋が、660年5月の百済討伐を決定したという唐の高宗の通知を受け取った659年10月から、百済が滅んだ660年7月13日の間に、ぴったりと重なっていることに注目せざるを得ません。
蓋蘇文が到着後に、斉明政権は200隻の船で粛慎国を討ち、百の高座・百の納袈裟を作り法会を設け、皇太子が初めて水時計を造り、石上池のほとりに寺院の塔ほどの高さの須弥山を造るなど、多くの作業を行っています。
金春秋の百済討伐の念願が達成されたのは、決意してから実に18年後の660年7月13日のことでした。
7月9日の廣山の平原での新羅軍との壮絶な戦いで死んだ、百済の将軍・揩伯の勇ましい戦いぶりが伝えられています。揩伯は、決死の兵5千人で出撃する前に、「我が妻子が敵の奴隷になり、生きて辱めを受けるよりは、堂々と死ぬほうがましだ」と、妻子を皆殺しにしました。戦う前に敗戦を予期していたようです。
廣山での激戦を制した新羅王・金春秋と金庾信らの軍は唐の蘇定方の軍と7月10日に扶余で合流し、7月13日に義慈王を捕らえました。8月2日、金春秋と蘇定方は堂の上に座り、堂の下には百済王と太子が座りました。金春秋は万感迫る中、天を仰いでから百済王に酒を注がせました。それを見た百済の群臣たちは皆、涙を流して嗚咽を上げたのです。
百済討伐が成功した要因として、日本に派遣された淵蓋蘇文と道顕の存在を挙げなければなりません。蓋蘇文らは、半島で唐・新羅軍が百済を攻撃している間、粛慎国を200の船団で討たせ、天皇・皇太子・人民らにそれぞれ仕事を与えてその作業に集中させるとともに、大和国内を監視して日本からの援軍を阻止することに成功しました。まさにこれこそが、金春秋の最大の狙いでした。
やがて唐は、百済の故地に熊津・馬韓・東明・金蓮・徳安の五つの都督府を設置して唐の領土とし、半島支配に乗り出すことになります。この展開は金春秋にとって想定外のことだったと思われますが、黙認してしまったようです。
百済の滅亡が斉明天皇に知らされたのは、百済王らが唐に連れ去られた2日後のことでした。日本にいた百済の人々にとって本国の滅亡は、まさに青天の霹靂(へきれき)でした。
その後、661年3月に、斉明天皇が百済を再興するべく朝廷を筑紫に移しました。新羅王・金春秋は、その3カ月後の6月に59歳で崩御したことになっています。


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