政局が激動したこの頃、金在春中央情報部長側が外遊中の金鍾泌を完全に除去しようとした。当時、共和党議長だった金貞烈の回顧録によれば、この動きを金貞烈議長に知らせた人は、張澤相元国務総理だった。金鍾泌を除去する過程で朴正煕議長も大きな傷を負い、大混乱が避けられなくなるのは明確だった。
金貞烈議長は金鐘五陸軍参謀総長と金在春情報部長を説得、ようやく事態を収拾した。ところが、朴正煕議長は3月末、金貞烈を呼んで共和党の解体を頼んだ。金貞烈が、代案でもあるかと異議を提起したが、朴正煕は、党解体を譲らなかった。結局、金貞烈は4月5日まで解体すると約束した。
共和党の中で激しい反発があったが、紆余曲折の末、4月8日の党の解体を発表することにした。
8日、朴正熙は金貞烈に電話をかけて最高会議の共和党解体声明がまだ決定されていないため、解体の発表を午後2時にするよう要請した。午後2時直前、朴正煕から党解体を発表するようにと電話がかかってきた。そして、その直後には朴正煕議長とつながる直通電話がまた鳴った。
電話をかけた人は、最高会議の中で、穏健で合理的な判断をすることで定評のあった柳陽洙最高委員だった。彼は最高委員たちが共和党解体決定に当惑しており、朴正煕議長を引き止めた。朴正煕議長は、党の解体問題を最終的に金貞烈議長の決定に任せると言ったと伝えた。金貞烈は周囲にいた党務委員たちに共和党を解体しないと宣言した。
この日(8日)、朴正煕議長は、特別声明を通じて「軍政延長案の国民投票を9月末まで保留し、政治活動の再開を許容する」と発表した。また、「政府は9月、あらゆる政治情勢を総合的に検討して、公告された軍政延長のための改憲国民投票を実施するか、既存の憲法によって、大統領と国会議員選挙を実施する」と付け加えた。
朴正煕議長をこのように譲歩させたのは、実は米国の圧力だったと金在春情報部長が後日、振り返った。
朴正煕議長は、米国の圧力に譲歩するふりをしたが、得たものの方がはるかに多かった。彼が4年間の「軍政延長案」という、想像を遥かに超えた強硬な措置で、政界を揺さぶり、その渦中で、朴正煕の民政不参加宣言(2月27日)は紙屑となり、革命主体勢力の民政参加と朴正煕の大統領出馬は既成事実化してしまったのだ。同時に、自分を牽制していた軍部内の反金鍾泌勢力も除去した。
朴正熙はこの混乱と危機に適応、克服する過程で、彼が熱情の革命家であると同時に冷徹な政略家であることを証明した。朴正煕議長は、金在春情報部長に、共和党と競争するために、「自由民主主義を標榜する民族勢力が系譜と派閥を離れて一つになる愛国政党」を組織するよう指示した。
この激動の中でも、革命政府は近代化の課題には邁進し続けていた。
3月12日、蔚山石油精製所を着工(1964年5月に俊工)した。革命政府が62年に発表した「経済開発5カ年計画」は、安価なエネルギーの確保がカギだった。当時、韓国の石油調達窓口は解放の直後、米軍政が設立した、大韓石油貯蔵会社(KOSCO)だった。この会社の株主であるスタンダードオイル、カルテックス、シェルなどの米国の3大石油メジャーが油類の貯蔵と販売を独占した。KOSCOはガソリンなど、精製された高價の完成品を輸入販売した。革命政府は石油を安定的に確保するために、公企業主導の需給戦略が必要だった。
(つづく)