韓国スローフード探訪38 薬食同源は風土とともに

残暑の光州で無等山の陶窯址とスイカ
日付: 2020年09月16日 00時00分

 気温30度は涼しいと思うほど連日の猛暑が続いた。熱中症予防とコロナ感染予防をしながら体調を崩さないようにと心掛けた。その中のひとつが韓国で体験した果物を食べる習慣が当たり前のようになっている凄さだ。
光州の地元スーパーに立ち寄り思いがけずスイカをいただいた時、「冷たい物もいいけど夏はスイカやチャメ(ウリ)を沢山食べて身体の熱を下げないと弱ってしまうからね」という何気ない言葉が夏バテ防止になっている。
韓国の南西部に位置する全羅南道・光州。キムチ祭りや光州ビエンナーレの開催などで国内外に知られ、さらに南部にある康津郡は高麗青磁の発祥の地で、国立光州博物館にはこの地で発見された象眼青磁や粉青沙器、白磁の器などを見ることができる。光州に何度か足を運んでいるうちに、光州駅からタクシーやバスで行くことのできる無等山国立公園内に忠孝洞陶窯址があることを知った。
無等山のスイカをいただく
 無等山は光州、和順、潭陽にまたがり標高1187メートルの天王峰を主峰とし、昔から信仰の対象ともされてきた。主峰付近には天を仰ぐようにそそり立つ柱状節理が連なり、無等山が白亜期にできた火山であったことを物語っている。周囲には証心寺や元暁寺などの古刹や朝鮮時代中期の学者(ヤン・サンポ)が開いた庭園(ソセウォン)が四季折々の美しい風景とともに旅人を迎えてくれる。
光州へ何度か足を運んでいたのだが、なかなか無等山を訪れる機会がなかった。たまたま、数年前の8月の末に初めて無等山国立公園に行く機会を得た。目的は、広大な公園内にある忠孝洞窯址を見るためである。気温30度。厳しい残暑が続く中、陶窯址へ向かった。この窯は高麗時代後期から朝鮮時代前期まで使われていたという。窯址は想像していたよりも規模は大きく、緩やかな傾斜の登り窯だったこともわかる。窯の底の部分が当時のまま残り、大小数多くの器が作られていたことが実感できた。
同行してくれた韓国人の友人が「無等山は高級スイカの産地だから」と言い出し、「せっかくだから本場で食べてみよう」ということになった。無等山のスイカは夏の贈答品として喜ばれ、ソウル市内のデパートでは何度か見かけたことはあったが本場で食べたことはなかった。
街中に着き無等山スイカを出しているようなカフェや飲食店を探したが見つからず、地元のスーパーのような店内にちょこんとあるのを発見。友人が間髪入れずに店に入り、いきさつを話すと「家で食べるのがあるから、それで良かったら一緒に」と言われ、満面の笑みを浮かべ勧められるままに店内へ。そうこうしているうちに、カットされたスイカがテーブルの上にドンと置かれた。「どこまで行ってきたの。日本から。日本のスイカも美味しいと思うけど無等山のスイカは特別だから。糖度の高さは世界一かも知れない。食べてみて」勧められるままにガブリとひと口。「う~ん。甘い」あとは無言で食べ続けた。「まだあるから。沢山食べてね。暑い時はビールもアイスも美味しいけど、身体から余分な熱を出すにはスイカが一番だからね」と。
80代というお母さんの言葉は続く。「冷たすぎても身体にはよくないし、昔は冷蔵庫もなかったから水で冷やして夕涼みをしながら食べるのが楽しみでね。今は冷房もあるけど、夕飯の後にみんなで食べるのは変わっていないかな。果物を必ず食べないと身体に悪いから」と。親戚の家に遊びに来たような感覚であった。すっかりご馳走になり、スイカのお代を取ってほしいと伝えると「そんなつもりで食べてもらったのではないから」と断られた。そこで住所と名前を欧文とハングルで書いてもらい、お母さんから「ラインの方が便利だから。次に来る時は駅まで迎えに行くから」とラインを交換した。
今年の夏は光州から東京に来る予定になっていた。東京に来たら、スイカの時のお礼にお寿司屋さんに案内すると約束をしていた。その日が早く来ることを願っている。スーパーや八百屋の店先でスイカを見るたびに、無等山のスイカをご馳走してくれたチェさん一家の優しさを思い出す。

新見寿美江 編集者。著書に『韓国陶磁器めぐり』『韓国食めぐり』(JTB刊)などがある。


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