海を渡った先人達(60) 先人10人目 中臣鎌足⑦

日付: 2020年09月09日 00時00分

 (中大兄に倭王・入鹿の殺害を同意させた鎌足は)やがて『大事を謀るには助力者があるのがよろしい。蘇我倉山田麻呂の娘を召して妃とし、婿と舅の関係を結んで、後で事情を明かして共に事を計りましょう。成功の道にこれより近いものはありません』と進言すると、自ら仲人の役をまとめ上げたのです。
ついに入鹿王を殺害する日が来ました。
645年6月12日の飛鳥の上空には厚い灰色の雲が一面に覆い、板蓋宮の大極殿前の広場には三韓からの使者や官人らが倭王の到着を待っていました。やがて入鹿王がゆっくりと大極殿に入って来ると、俳優がどこからともなく現れ、滑稽な仕草で踊りながら入鹿王が帯びていた剣を解かせました。
その後、中央の椅子に座る入鹿王の前に進み出た蘇我倉山田石川麻呂は、三韓の上表文を読み始めました。上表文が終わりに近づきましたが、中大兄は現れません。倉山田麻呂の全身から汗が噴き出し、声も乱れ手も震えていた時、鎌足は失敗した時に備えて、物陰から弓矢を構えて入鹿王に狙いを定めていました。
その時でした。中大兄が「ヤア!」という掛け声とともに躍り出て、入鹿王の頭から肩にかけて斬りつけたのです。続いて、佐伯子麻呂らがとどめを刺しました。横たわっている入鹿王の遺体の上に激しい雨が降り注いでいる中、古人大兄は私邸に走り入って、「韓人が入鹿王を殺した。われも心痛む」と言うと、寝所に入って籠ってしまいました。
日本書紀には、古人大兄は事件の後に吉野に入り出家したが、謀反を企てた罪でその年の11月に殺されたとあり、古人太子・吉野太子とも呼ばれたと記されています。これが真実なら、古人大兄は入鹿王の太子(世継ぎの子)だったことになります。
入鹿王殺害の2日後(6月14日)のことでした。中大兄が自身の天皇への即位について鎌足に相談しました。すると、「軽皇子は、殿下の叔父上です。しばらく叔父上を天皇に立てられて、人々の望みに叶うならそれで良いではありませんか」と、かわし、中大兄の功績は無視されてしまいました。鎌足は中大兄の叔父・軽皇子を天皇に立てたのです。
鎌足はその日、天皇(軽皇子)、皇太子(軽皇子の甥・中大兄皇子)、左大臣(中大兄の舅・阿倍倉梯麻呂)、右大臣(中大兄の舅・蘇我倉山田石川麻呂)、内臣(中臣鎌子)、国博士(旻法師・高向史玄理)のそれぞれの人事を定め、新政権を発足させました。
『中臣鎌子連は、志忠の誠を抱き、宰臣として諸官の上にあった。その計画は人々によく従われ、物事の処置はきちんと決まった』と日本書紀に記されています。その後この年の元号を「大化」とし、「大化の改新」という大改革が行われたのです。
その頃、鎌足は東国に赴いています。目的は柵を設けて屯田兵を配置し、東国を支配していた蘇我王朝の首長らを日本国の新政権に服属させるためでした。鎌足は大和に戻る途中、相模国の由比の里に立ち寄り、常に携帯していた槍を由比の丘に埋めて日本国の安定を祈りました。そして鎌足が槍を埋めたことに因んで、その地は「鎌倉」と名づけられたと伝えられています。


閉じる