海を渡った先人達(58) 先人10人目 中臣鎌足⑤

日付: 2020年08月26日 00時00分

(642年に金春秋が高句麗へ遣わされた時の官位は、二等官の伊飡。647年の倭国の記録によれば官位は大阿飡)5年後の647年に五等官の大阿飡に格下げされたのでしょうか。たいへん疑問に思っていますが、おそらく金春秋を騙った別人だった可能性もあるように思います。
しかし、『春秋は容色美しく、快活に談笑した』という形容は、金春秋が648年に唐に遣わされた際の唐側の形容『春秋の風采は、優れて麗しく偉大である』に共通しています。金王朝が西域の人によって建てられた可能性が高いことから、金春秋は色白の彫りの深い西洋人風の顔立ちで、堂々とした人物だったと想像されます。
一方、中臣鎌足に対する形容も『軽皇子は、鎌子連の資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って』との日本書紀644年の記述から、中臣鎌足の性質・容貌も金春秋に共通していることがわかります。すでに中臣鎌足が新羅の王族・金氏であろうと考証したことと考え合わせると、二人が同一人物である可能性は非常に高いと言わざるを得ません。以降の考察では、そのことを踏まえた上で二人の実態を探っていきたいと思います。
金春秋が高句麗で解放された後、時を経ずに倭国に入ったとしたら、倭国の状況を偵察し百済討伐の可能性を探るためだったと考えられます。金春秋は倭国に入ると、倭国で嫌われている新羅人であることを隠して、神祇伯の家系の中臣鎌子(または、鎌足)という倭人に成りすましたようです。
鎌子の「鎌」は、金と兼という字に分解できます。すると、「金兼子」となり、「兼子」は、中国語の発音では<チェン・ツ>です。これは、春秋の韓国語の発音<チュン・チュ>によく似ています。なお、足<ツゥ>と子<ツ>は、ほとんど同じ発音です。このことも、金春秋と中臣鎌足を同一人物と推定する根拠の一つになるのではないでしょうか。
倭国の状況を偵察した金春秋は、百済の討伐を成功させるためには倭王を殺害して倭国を滅ぼし、新羅にとって都合のよい新政権を発足させ倭国から百済への援軍を阻止する他に道はない、という結論に至ったようです。実際、百済の武王(在位600~641年)は在任中9回も新羅を攻撃していますが、常に倭国の援軍を伴っていることが日本書紀の記述から推測できます。
しかし金春秋が倭国を滅ぼした理由は、それだけではなかったと考えています。
356年に金王朝が昔王朝を滅ぼした後、百済・新羅・倭国の三国交渉の結果、倭国にあった伽耶王朝は、その地を任那(にんな=任せた国)と称して百済の管理の下、主権を行使してきたことは【神功皇后】のところで述べました。ちなみに、任せた国という意味の任那とは、欽明天皇二十三年(562年)1月に、『総括して任那というが、分けると、加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・率麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて10国である』と記されています。これらの国々は弁韓地域であり、現在の韓国慶尚南道にあたります。


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