朴正煕議長が軍服を脱がず、軍の指導者として残っている限り、誰も無視できない存在だ。そのため、朴正熙が民政への不参加を宣言した後も、自信のある態度が取れたのだ。それでも野党は「事実上、軍事政権は終止符を打った」と楽観的なコメントを出した。だが、朴正煕の後退は、本気ではなく、米国、野党、軍部の攻勢を和らげるための戦略上の選択だったことが間もなく明らかになる。
国防長官と3軍参謀総長など軍の首脳部は総じて、朴正熙の民政参加と金鍾泌の役割に対して批判的だったが、1軍司令官の閔機植中将は違った。彼は「軍隊が革命をした以上は、責任を持って国家を正さねばならない」という所信を持っていた。1軍司令官は、陸軍の戦闘部隊の大半を管轄していた。彼は野戦軍司令官として、一線中隊長たちの苦情を直接聴取し、これを朴議長に伝えるほど使命感の強い軍人だった。
軍事革命の課業を引き継ぐべき国民政党を作ろうとして挫折した金鍾泌が出国するや、金在春情報部長は、3月6日、「4大疑惑事件」捜査の中間発表をした。中央情報部の幹部など15人を拘束したという。朴正煕議長としては、金鍾泌に自分が黙認した事件なのに、世論に押されて、関係者らが逮捕されたから気分が憂鬱だった。
この捜査の中間発表の前日、朴正煕議長は江原道視察の名目で春川を訪問した。閔機植1軍司令官が、司令部のある原州から春川の米軍飛行場に迎えて行こうとしたら、金鍾五陸軍参謀総長が電話で政治的に行動しないようにと警告した。民政不参加宣言直後だったせいか、最高会議議長の視察なのに、随行員も少なく、出迎えに来た人士も著しく減った。
朴正煕議長を随行した東亜日報の李萬燮記者(後に国会議長)が閔機植司令官に「この頃、一線の雰囲気はどうですか」と尋ねた。閔中将は、「ソウルの政治が物騒がしいが、政治が安定しないと、一線が不安になる。政府に参与した軍人たちが原隊復帰するそうだが、彼らの復帰を誰が望むだろうか。軍の指揮体系は崩れてしまった」という要旨で答えたという。
ところが、李萬燮記者は、「軍団長級以上の将星が会合、朴議長が民政に参加すべきだと建議することにした」という要旨で送稿した。この記事は大きな波紋を呼んだ。陸軍参謀総長は、この記事の真偽を確認しようとしたが、閔機植司令官は、参謀総長の電話を受けなかった。
朴正煕議長は翌日、原州へ行く車の中で同乗した閔機植司令官に革命後の苦情や失望などを吐露した。閔機植司令官は真顔で朴議長に「お辞めになるなら離任の挨拶でもしてください。明日の朝、司令部に中領(中佐)級以上の将校を全員招集します」と言った。その日、二人は深夜まで酒を飲んだ。
翌朝、1軍司令部の練兵場に集まった将校たちの前で、朴正煕は原稿なしで即席演説をした。この演説は彼の政治行路を変えた。民政不参宣言後、鬱憤と混沌に陥った朴正煕は、この演説を通じて、権力意志を新たにしたのだ。
朴正煕は「このような所にくるとわが家に戻った気分になります」と語り始め、政治的中立に対する所信を明らかにした。
「軍が政治に関与しないだけでなく、政治家たちも軍に干渉しないでこそ軍が真の中立を維持することができます。過去に、一部の軍将校の中に、分別のない将校たちが政治家たちを後ろにつき、秋波を送り、個人の出世と栄達のため軍人らしくない行動をしたのは、軍の名誉を損ないました」(つづく)