海を渡った先人達(57) 先人10人目 中臣鎌足④

日付: 2020年08月15日 00時00分

 (ある者が高句麗王に金春秋を殺すよう進言します)
王はこれを聞いて、金春秋を拷問しようとしたができず、その代わり<本来、麻木●(山へんに見)と竹嶺は共に我が国の地である。もし、我が国に還さなければ帰ることはできない>と告げた。金春秋は<国家の土地は、臣下が勝手に決めることはできません。敢えて命令を聞くことはできません>と答えたので、高句麗王は怒って金春秋を獄に監禁して殺そうとしたが、果たすことができなかった。ある日、金春秋は、高句麗王の寵臣である先道解に青布を密かに贈って酒をご馳走した。道解の《亀と兎の話》を聞いた春秋は、その意味の比喩を悟り、<麻木●(山へんに見)と竹嶺は本来高句麗の地でありますので、臣の帰国後、我が王に請うてお返しします>という手紙を書いた。新羅で待機していた金●信は、60日が過ぎても金春秋が帰って来ないので、勇士3千名を選んで出発した。これを聞いた高句麗王は、金春秋からの誓いの書を受け取っていたこともあり、厚く礼遇して春秋を解放した』
この二つの史書の内容には若干の違いがありますが、百済によって娘が殺されたことを恨んだ金春秋が百済を討つために高句麗に兵馬を求めに行ったが、監禁された後、解放されたことは共通しています。
金春秋は、新羅金氏の眞智王(在位576~579年)の王子・龍春の子で、603年に生まれたとされ、母は眞平王(在位579~632年)の娘です。最初の妻は、従妹の宝羅でした。長女・古タソの実母ですが、長男(法敏?)を出産後、死亡したようです。二番目の妻は、金●信の妹・文明夫人です。やがて、眞徳女王(在位647~654年)の死後、王位を継いで武烈王(在位654~661年)になり、百済の討伐を達成したおよそ1年後の661年6月に崩御したとされています。
その金春秋の先祖は、新羅金氏の初代とされる、13代味鄒王(在位262~284年)です。味鄒王の墓からは、ペルシャ系の人物像などが象嵌されたガラス玉を使用した首飾りや、台付角杯などが出土し、西域系文物が特徴となっています。
また、『韓国の古代遺跡・新羅編』によると、『500年頃~600年にかけての特異な西域文物として、宝石が埋め込まれた黄金の短剣(慶州鶏林路14号墳出土)があるが、これはカザフ共和国のボロウオエ遺跡の出土や、中央アジアのサマルカンドのアフラシャブ壁画などに最も類似している』と記されています。これらのことは、金王朝が西域の人によって建てられた可能性が非常に高いことを示唆しています。
金春秋が高句麗から解放されたのは642年12月初旬のことでしたが、その後の金春秋の様子については眞徳女王二年(648年)冬の『〈伊飡〉の金春秋とその子・文王を唐の朝廷に遣わした』と記されるまで、6年間も記録がないので窺い知ることができません。
実は、金春秋が倭国に来たとの記述が孝徳天皇三年(647年)にあるのです。『新羅が〈大阿飡〉金春秋らを遣わして、孔雀一羽・オウム一羽などを献上した。春秋は人質として留まった。春秋は容色美しく、快活に談笑した』というのですが、この時の金春秋の官位は〈大阿飡〉とあります。642年に高句麗に遣わされた時は、二等官の〈伊飡〉でした。


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