ゲスト講師 新見寿美江
韓日の”いにしえ”を訪ねていくと、2つの国の思いがけない繋がりが発見できる。さらに、悠久の時に触れる感動は意外とクセになる。韓国の遺跡を巡れば埴輪に出会い、日本の古都を眺めれば韓半島の古代国家が透けて見えてくる。今回は「古代史を歩く」がテーマだ。
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五層石塔は2015年、百済歴史遺跡地区のひとつとしてユネスコ世界文化遺産に指定された(写真=韓国観光公社) |
百済は、日本と密接な関係があるのは周知のとおり。特に奈良との関わりは深い。
百済の都として知られるのが公州と扶余の二つの街。百済滅亡の時に都が置かれていたのが扶余。修学旅行先としても人気があり、日本からも多くの高校が訪れている。この街は主要観光スポットを徒歩で回ることができるのも旅人には嬉しい限り。
百済第25代武寧王(462~523)の子ども・聖王は都を公州から扶余へ遷都した。その理由は扶蘇山の切り立った断崖とその下を流れる白馬江(錦江)が天然の要塞となったこと。扶蘇山城を築き、山城の麓の南側に続くゆるやかな斜面と平地には、碁盤の目のように道を造り、寺院や家臣の住居、そして民家を計画的に配した。
扶蘇山城では、多くの遺構を見ることができる。特に印象に残るのが落下岩であった。百済最後の日に、多くの女官たちがこの岩場から眼下を流れる白馬江に自ら飛び込み命を絶ったと伝わっている。切り立った岩場に夕陽が差し込むと、まるで血に染まったような赤い岩肌になるという。
この話を聞き、夕暮れに白馬江の遊覧船に乗って白馬江から落下岩を見上げてみた。夕陽が岩場を赤く照らし、女官たちの痛ましい姿を想像すると同時に、戦の虚しさを後世に伝えているかのような悲しみの赤であった。百済は倭国の応援もむなしく滅亡した。白馬江の河口となる白村江の戦いは史実として伝えられている。
扶蘇山城の正門からすぐのところに定林寺址がある。伽藍址に現存するのは『五層石塔』と新羅時代のものと伝わる『石仏座像』で、空き地のようなところにポツン、ポツンと解説文とともにあった。残っている物は少ないが広い伽藍址から、寺の大きさが伝わってくる。何度か訪れているうちに伽藍址が徐々に整備されてきた。敷地内にある国立扶余博物館で創建当時の資料を参考にしながら定林寺跡に示された案内板に従って歩いてみると、南北一直線に一柱門、中門、塔、金堂、講堂、回廊など大寺院であったことがわかる。
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石仏座像は、最近新たに建てられた講堂に安置されている(写真=韓国観光公社) |
寺の建立時に造られたとされる『五層石塔』(国宝)は、エンタシス技法の柱と薄くて幅の広い屋根のある優美な姿をしている。別名・百済塔とも呼ばれるこの塔は、最初の塔身部分に、唐と新羅の軍が百済を滅ぼしたと、刻まれている。焼け焦げたあとが残る塔の背後には、百済時代に寺を改修する際に造られたとされる『石仏座像』(国宝)が講堂とされる位置にある。仏像は廬舎那仏像の様式とされるが風化状態の頭部と天蓋は後世に付け替えられたもの。台座には蓮の花が刻まれ、百済時代の華やかな仏教文化を垣間見ることができる。
奈良遷都1300年を迎えた時期に、大神神社から奈良市内に続く山野辺の道を歩いた。スタート地点の大神神社の近くには狭井神社や桧原神社、相撲神社などがあり参拝客で賑わっていた。徐々に道はさらに細くなり山間に入ったかと思えば、丘陵地を切り開いたような田畑が続いたり、時には民家の軒下のような道があったりと変化に富んでいた。方向を示す案内板があったこともあり迷うことなく奈良の手前となる近鉄桜井線の天理に到達できた。この時、「これぞ古代史のおもしろさ」と、思うことに遭遇した。
大神神社から少しずつ山間に入り、やや小高い丘のようなところに脇道があり、小さな立札のような案内板があった。持っていた資料には示されていなかったが、何だろうと近づいて案内板を読んだ。そこにはなんと定林寺跡とあった。百済との関連が深いとは思っていたが、扶余にある定林寺址と同じ名前。しいて言うなら、定林寺跡という文字から、今は何も残っていないことを示すと解釈した。同時に誰かに伝えたいとワクワクした。この場所に扶余と同じ名前の寺院を建てたということは、百済からやってきた身分の高い人たちがこの周辺で暮らしたのではないだろうか。そう考えるだけで山間の道が扶余へと繋がっているとさえ感じられた。
自分としては大発見だ。これ以来、扶余を訪れる機会もさらに増え、定林寺址に立つ度に背後にある扶蘇山城を眺めながら、石塔と石仏があるだけで古代に接することができる喜びに浸っている。いつか、奈良の定林寺跡からも何かが発見されるかも知れない。歴史は、調査や発掘が進むにつれ刻々と塗り替えられる。そこがおもしろい。
百済には寺院建立に欠かせない高い技術がすでにあった。伽藍のある寺としては日本最古とされている飛鳥寺。現在は安居院と呼ばれているが法興寺、元興寺とも称され、着想から建立までの経緯は『日本書紀』に記されている。飛鳥寺の資料展示の中に、建立にあたっては、百済から技術者を呼んだという記録があり、いちばん多かったのは瓦工であった。また、相輪の担当者もいたことから金属加工技術などもこの時代から高まったのではないかと思う。さらにこの時代、轆轤や焼成窯の技術も伝わっていることにも注目したい。
歴史は多くのことを気づかせてくれる。古代史をほんの少し知るだけで、さまざまなことと繋がってくるから面白い。
新見寿美江 編集者・著者。著書に『韓国陶磁器めぐり』『韓国食めぐり』(JTB刊)などがある。本紙に「薬食同源は風土とともに」連載中。
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古代史万華鏡クラブ 勝股会長に聞く
「百済は”滅びの美”」
―百済を初めて訪れたのはいつ頃ですか。
30年以上前になるかと思います。私にとっても扶余(古代名・泗●=さんずいに比)は思い出深い地です。韓国の起亜自動車(KIA)と資本提携していたマツダが、韓国を舞台にコスモの試乗会をすることになり、それに参加しました。釜山から自由行動でソウルまで走る旅でした。
古代史好きの私は、同行した徳大寺有恒(古代史に興味は薄かったが、旅行後韓国通になったようだ)を説得して、釜山↓慶州↓扶余↓ソウルのルートを選びました。当時の韓国の高速道路は、南から東西で北上する2本のルートと、北方でそれを結ぶ中央ルートの計3本があるだけだったと記憶しています。
今、韓国を訪れると高速道路が縦横に走っており、日本の高速道路網をも凌ぐほど。ここ30年の変わりようには驚くべきものがありますね。車産業もしかり。昔の起亜はマツダ車のノックダウン会社でしたが、今は現代自動車と連合して生産台数で日本メーカーと競い、電気自動車分野では車種構成と性能で日本車以上の実力を持った存在になりました。あ、話が脱線してしまいましたね。
―いえ、さすがは長年、自動車専門誌の編集長をされていた経歴が伺えます。ところでそのころの扶余はどのような街でしたか。
古都として趣のある慶州とは違って、軒の低いコンクリート家屋が並ぶ平凡な韓国の小都市で、かつての華やかな都の趣は感じられませんでした。世界遺産に認定された今とは随分違います。
新見さんも書いておられるように、538年に熊津から扶余に遷都したのは第26代王・聖王(聖明王)でした。敵対する新羅に対抗するため倭国との同盟を強化すべく、五経博士(易経、詩経、書経、春秋、礼記からなる儒教を教える)や仏像、経典、技術者などを送って、見返りとして軍事支援を求めたわけです。聖王こそ552年(538年説もある)に日本に仏教を伝えた王です(聖王は554年、新羅との闘いで戦死)。
扶余に在地6代122年ですから、この時代は百済にとって政治、社会、文化、軍事が最も開花した時期であったといわれてます。しかし660年、31代・義慈王の時代に新羅・唐連合軍に攻められ滅亡。さらに663年、百済復興を期した百済遺臣と倭国が連合して戦った白村江の戦いに惨敗し、百済は完全に350余年の歴史に幕を下ろしました。旧唐書には「其の舟四百艘焚え、煙焔天に漲り、海水皆赤し」と、倭軍の敗退が記されています。
―韓国時代劇でも『朱蒙』『善徳女王』『階伯』など三国時代は人気があります。
私は韓国を訪れると「あなたは百済、新羅、高句麗のどの国が好き?」と、よく聞くんです。高句麗は少数派。新羅派は慶州の文化を自慢しますね。百済派は新羅のことを、唐の力を借りて百済を滅ぼした国と批判したのが印象的です。
660年の扶余攻防戦、新羅は唐と同盟を結んで扶余を攻めました。唐の水陸13万人、新羅5万人の大軍は何もかも焼き払い、砕きつくし、残ったのは瓦のカケラだけといわれるほど。今でも少し掘ると瓦の破片がたくさん出るそうですよ。
百済は「滅びの美」ですね。泗●の泗は「涙」の意。落花岩の話もそうですが、やはり扶余は涙なくして語れません。悲しみは今に伝わっています。
―倭国と最も関係の深かったのが百済ですね?
はい。百済の救援に失敗した一方で、百済から迎えた多数の亡命者を通じて、その後の日本はこれまでにないほどの密度で大陸文化を吸収することになります。そして、律令体制の確立につながっていくわけです。滅びた百済の文化は、日本に伝わって根付いていると言ってもいいでしょう。
海上交通不自由の時代、はるかに遠い百済の地に、大船団を組んで4万人の兵隊を戦いに送った倭国…。兵隊の数は諸説ありますが、倭の国内人口が500万人にも満たない時代ですから、4万人の半分であったとしても現代の人口に比例すれば何十万人にも相当する数になる。
倭国は、なぜそれほどまでに百済のために戦ったのでしょうか…その理由が、私の次の研究課題です。
勝股優 自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。※写真は勝股氏秘蔵の開城の発掘品・軒瓦(開城は百済、高句麗、新羅、高麗、朝鮮の各王朝で長く栄えた古都)