大韓民国の建国史(204)急進的な民族主義勢力を牽制し続けた米国

日付: 2020年08月15日 00時00分

 金鍾泌は、金浦空港で記者団に「革命を起こしたトルコ、イラク、ビルマなどを巡回大使の資格で回り国々の革命の完結を見るつもりです。そして、革命の指導者が政権を続けて取らねばならないという結論が得られれば(民政不参加を宣言した)朴正煕議長に出馬を建議する」「この国を正せる人は、その方しかいないという信念には変わりがない」と述べた。
金鍾泌は東京で京郷新聞の李桓儀特派員と会って、米国への鬱憤を吐露した。米国が形ばかりの民主主義を実現させようとし、そのため、米国に迎合する者らを立てようとしていると言った。米国は5・16直後から、金鍾泌を急進的な民族主義勢力、ないし反米勢力とみなし、彼を政治的に無力化することを対韓国政策の基本として設定した。
このような背景から、民政への移譲を前に、朴正煕と金鍾泌勢力が内外からの挑戦に直面するや、これを好機と判断した。米国は金鍾泌を共和党と分離して朴正煕の支持基盤を弱体化させた後、朴正熙に圧力を加え、民間政治家たちと連合政権を作るようにするという構想もあった。
サミュエル・バーガー在韓米大使は2月13日、国務省宛の電文で、連合政府の大統領権限代行に朴正煕、国務総理には許政を想定できるとした。国務省は翌日、バーガー大使宛の訓令で「朴正煕なしでも軍部の支持を受ける強力な政府を構成できるだろう」と提案した。バーガー大使はその頃、野党と軍部に工作して、朴正煕と金鍾泌を挟撃する戦術を駆使していた。その時期、米国側の秘密電文で見られる金鍾五陸軍参謀総長の態度は、親米的で反金鍾泌だった。
金鍾泌が出国した翌日の共和党創党大会で、鄭求瑛が総裁に選出された。鄭求瑛の生前の回顧によれば、米国大使館は金鍾泌を排除するよう圧迫するため、食糧援助を中止するという噂を広めたという。金鍾泌は深夜、バーガー大使を訪ねて援助中断説をめぐり激論を交わし、戻ってきて鄭求瑛に打ち明けたという。
鄭求瑛は、朴正煕議長が民政不参加を決めた大きな理由も、米国の援助中止の圧力だったと理解したという。朴議長は、米国が穀物援助を中止する状況に備えて、韓国日報の張基榮社長を日本へ派遣し小麦粉の導入交渉をするようにした。この交渉が成功し、米国が穀物援助を止めなかったため、韓国政府は、小麦粉を多く保有することになり、1963年末の2回の選挙のとき朴正煕側の得票戦略に有利に作用した。
朴正煕議長は63年2月27日の午前、ソウル市民会館で、民間政治家たちと政局収拾原則に合意する宣誓会を行った。朴議長が民政不参加の条件として提示した「報復禁止」「革命精神継承」など9項目を民間政治家が受け入れ遵守する約束をしたのだ。朴議長は演説の途中涙ぐみ、喉が詰まったが、演説で含意のある警告を忘れなかった。
「世代交代を成し遂げていないこの国の政情は、ひたすら皆さんの一大覚醒と努力なしには、また政治的危機を招く可能性を十分内包しています」
この日、朴炳權国防長官と3軍の参謀総長たちは共同声明を発表した。 
「私たちは、新しく誕生する民政を支持し、軍本来の任務に忠実に従う」「朴議長をはじめ、各級将校たちは軍に復帰して軍の発展に寄与してくれることを心から歓迎する」とした。朴正煕は民政に参加しないと言い、軍服を脱いで野人に帰ると言ったわけではなかった。
(つづく)


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