海を渡った先人達(56) 先人10人目 中臣鎌足③

日付: 2020年07月29日 00時00分

鈴木 惠子

 日本書紀の天智天皇八年(669年)5月5日に、天皇は多くの群臣を従えて山科野に薬狩りをしたとあります。その約5カ月後に鎌足は亡くなりますが、天智天皇が死の直前に見舞った際の『鎌足は痩せ衰えること極めて甚だし』の言葉から、鎌足が落馬して骨折し、長い間療養していたことが推測されます。
一方、韓国国立中央博物館の協力による調査結果によると、阿武山古墳の出土品は、慶州の新羅時代(450~500年頃)の王族の古墳「天馬塚」「金冠塚」などの副葬品にそっくりだということです。実際、鎌足が被っていた《大織冠》の形は、新羅の冠帽の形そのものです。このことから、中臣鎌足が新羅の王族である可能性が非常に高いことがわかります。
中臣鎌足が新羅の王族だとしたら、どんな理由で倭国に来たのでしょうか。そして、なぜ名前を偽らなければならなかったのでしょうか。鎌足の長男・定恵が643年に生まれているので、その人物は、643年初頭までには倭国に入ったことになります。まずは、その頃の新羅の様子から探ってみることにします。
新羅本紀には、次のようにあります。
『善徳王十一年(642年)秋7月、百済王・義慈(在位641~660年)が大挙攻めて来て、国西の40余城を奪った。8月、百済の将軍・允忠が大耶城を攻撃し、都督(新羅の軍職)・品釋らが死んだ。品釋の妻も殺された。妻は金春秋の娘である。金春秋は娘が殺されたことを聞くと激しく嘆き悲しみ、百済を攻撃することを決意した。
冬10月、善徳女王は百済を討つために伊飡(イ・サン、新羅の第2位の官位)・金春秋を高句麗に遣わし、軍隊を請わせた。金春秋が高句麗王に兵馬を要請したところ、<竹嶺は、本来我が国の地であるので、汝がもし竹嶺の西北の地を還してくれたら、兵を出してやろう>と言った。
すると金春秋は<大王は、救いを求めている隣人に威張り脅かしている。もはや、どうしたらよいのかわかりません>と言った。これを聞いた高句麗王は、高慢な態度だとして激怒し、金春秋を別館に閉じ込めてしまった。
金春秋は密かに人を遣わして、本国の王に捕らえられたことを知らせた。善徳女王は、金庾信(ユシン)に命じて、決死の兵一万人を率いて高句麗に赴かせた。金庾信の軍が漢江を渡って高句麗に入ったことを聞いた高句麗王は、金春秋を解放した』
三国史記・列伝・金庾信(上)では、次のようになっています。
『善徳大王十一年(642年)に、百済が新羅の大梁州(陜川)を破った。金春秋の長女・古陁炤(コダソ)も夫の品釋と共に戦死した。金春秋はこれを恨んで、高句麗の兵を請うて百済への恨みを晴らそうとした。
金春秋が高句麗の国境内に入ると、高句麗王は太大対盧(高句麗の最高官職)の蓋金(淵蓋蘇文)を派遣して、金春秋を館に迎え入れて盛大な宴会を設けてもてなした。
ある者が高句麗王に告げるのに、<新羅の使者は普通の人ではなく、我が国の形勢を偵察に来たのであります。王様は、彼を殺すのがよいのです>と言った。


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