古代史万華鏡クラブ 紙上勉強会 第5回

天平の名僧・行基
日付: 2020年07月08日 00時00分

講師:勝股 優


道路や橋を作り、灌漑事業や薬事まで

古代史ファンとしてNHKの大河ドラマでやってほしいテーマがある。『壬申の乱』と『行基』だ。
古代史ドラマが充実している韓国がうらやましい。記憶では『風と雲と虹と』(平将門)がもっとも古い時代か? 総じて日本のTV局は古代史ものには消極的だ。
大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が争った古代最大の争乱こそ大河にピッタリ。全50話でも足りないほどのドラマだが、TV界では皇室の争い事を題材にすることはタブーなのだろう。書籍は充実しているが、残念ながらTVドラマにはこれからも取り上げられることはないだろう。
それなら天平時代の名僧『行基』の物語はどうだろう。今回の講座は行基研究としたい。
当時の僧侶が民衆の救済・布教よりも国家や豪族への奉仕が使命という現実に飽き足らず、民間に出て社会事業や布教にあたり、最後には天皇からも愛された僧である。感動のドラマになるはずだ! 仏教伝来以来、平安中期の良源(天台座主)に至る500年近くの流れはおおむね渡来系の僧が日本仏教を築き発展させたといえる。古代史家であった井上光貞氏は13人の渡来系高僧を挙げている。道慈・智光・慶俊・勤操・道昭・義淵・行基・良弁・義訓・護命・行表・最澄・円珍だ。
奈良仏教の流れは新羅仏教の影響(国家鎮護)が強くなったが、その主導となったのは百済系の僧であったといわれる。数々の名僧の中からまず道昭を取り上げたい。本題の行基の生き方に大きな影響を与えた高僧だ。
道昭(629~700)は、船史氏の出自になる百済系渡来人。第2回遣唐使として唐に渡り、西遊記で有名な玄奘三蔵に学び法相宗を伝えた。当時の仏教活動に疑問をもち各地を歩き、社会事業や土木工事を行ったが、その志がその後の行基や渡来系の僧に引き継がれていく。
行基(668~749)は4世紀末に百済から我が国に文字を伝えた王仁氏系の西文氏から分かれた高志氏出身で、現在の堺市家原寺町で生まれたとされる。
15歳で出家、道昭や義淵を師とし24歳で正式の僧となったが、道昭入寂後、栄達の望みを捨て帰郷、実家に家原寺を建て庶民への布教に入る。同時に畿内各地に道を作り、井戸を掘り、池を作り、橋を架け、堀川を作り、灌漑水路を作り、開墾し、薬事で病人を救い、流浪民のための無料宿泊所・布施院を作る等、その活動は幅広い。布施院は行基四十九院にも及ぶ仏教道場・寺院へと繋がっていく。
これらの布教、土木工事や社会事業は何百、何千の民衆と共に行った。ところが8~9世紀までの僧侶は原則として寺外で一般庶民に布教活動をすることは厳禁だった。
行基のもとに集まったそれらの大集団は、政権にとってとんでもない脅威となったはずだ。717年には元正天皇は「小僧行基と弟子たちは朋党を組んで乞食をし、百姓を妖惑している。そのような行為を禁止せよ」という詔を出している。しかし、警告が厳しく実行されたという記録はないらしい。行基集団が政権をおびやかす革命集団ではなく、ただ貧しい民衆を救いたいという素朴な社会事業集団であるという判断があったからなのであろう。
元正天皇の後を継いだ聖武天皇は国分寺や東大寺の大仏を作るなど仏教に帰依し、自らを「三宝の奴」、仏の弟子と言った。そのベースに行基の行いへの理解と憧れがあったのではないか。745年、聖武天皇は行基を一方的に日本初の大僧正に任命している。
行基は朝廷に接近した転向者という厳しい評価もあるが、その後も自分の思う道を歩んだという。行基の求めたものは仏教の平等性ただそれだけだったはずだ。
行基には千余人の弟子があったというが、それらの弟子が行基入寂後、全国に散り活動した。行基開山とする寺院は全国に208寺を数え、高尾山薬王院もその一つだ。
また「だんじり祭り」で有名な岸和田の八木・山直地区の祭り(10月祭礼の2日目)は行基の作った久米田池と灌漑事業への感謝を表すもので、13台の「だんじり」が久米田寺へ参内する。
749年、81歳で入寂した後、朝廷から授けられた諡号は「菩薩」であった。
参考文献
「日本古代史と朝鮮」金達寿著 講談社学術文庫

勝股 優(かつまた ゆう):自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。


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