今年の梅雨はコロナ禍のため、例年よりもストレスを感じて憂鬱になる、という人が周りに少なからずいて、心穏やかでない。
許可証がなければどこにも行けない北朝鮮で、私は14歳まで入院以外に家を離れたことも、汽車に乗ったこともなかった。私の学年は最初の農村動員のとき、行くところがどんな場所なのか何もわかっていないのに、汽車に乗れる事にワクワクしていた。農村動員の経験がある上級生たちは、そんな私たちを見て鼻で笑っていた。
学校では、行く所の地名は教えてもらっていたが、地理の授業で学んだ知識以外の情報はなかった。われわれが教科書の内容にある以外の情報を調べたりするのは、スパイ行為とされ命に関わる事だった。それを知っているので、最初から誰も学校から教えてもらった内容以外には関心を示していないのだ。その上、あまり心配などをしなかったのは、学校やTVから教えられる内容のためだった。
1980年の朝鮮労働党第6次大会で金日成は、「社会主義建設10大展望目標」を発表し、その10大分野の細部目標値を提示して「速度戦」の旋風を呼び起こした。その中には、1500万トンの年間穀物生産目標量があった。人民たちに、白いご飯にお肉とお魚スープをお腹いっぱい食べさせるのが偉大なる首領様の切実なる願いで、そのために寝る時間もなく工場から農場へ現地指導をしていらっしゃる、と大々的に宣伝していた。朝鮮労働党の宣伝煽動部を担当していた金正日は、「首領様のこの偉大なる『所願成就』のため、全国民は腰の紐をギュッと締めて頑張ろう」とわれわれのような子どもまで農村動員させた。われわれも全国民も、当たり前に金日成の「所願成就」に命まで捧げる忠誠心に満ちていた。私は学校から、電気がない中でたまに見るテレビから紹介される「偉大なる首領様の精力的な活動のおかげで大発展した、住み心地良い農村の風景」を信じていた。われわれが住んでいる街より良いとみんなが思いながら、班に与えられた準備品などで集まると汽車の話から想像を膨らませた。
反面、農村動員の経験がある兄弟がいる子はそうではないと言っていたが、われわれの耳にははっきり聞こえなかった。多分、朝から晩まで続くきつい組織生活から解放されるかのような思い込みなどが影響していたのだと思う。
私も上に兄弟がいたが、勉強とスポーツが優れていたため農村動員に行かなくてよく、そのことについて知らなかった。姉たちは農村動員に行く私を羨ましがっていた。
家では、学校で出した準備品以外に色々準備してくれた物があった。北朝鮮の冬に学校制服のスカートの下に着る分厚いデニールを太股半分までの長さで切った物とネズミ除け薬、解熱剤、腹痛剤などに20リットルの水を汲める新品のビニールたらいなどを用意してくれた。お金は使うところがないので、一銭も持って行かなかった。他の子たちの大半が間食など食べ物の準備をしている中で、たらいを持っていく事にとても不満があったが、現地に行ってすぐその良さを知り、両親に感謝した。普段、家族内でそれぞれの組織生活などにあまり深く関わることがないため、互いに具体的には知らないと思っていたが、親は私のことをよく知っていた。たらいの助けがある度に家族を思い、涙が出た。
汽車に初めて乗った時の気持ちと風景は今も生々しい。駅に集合して校長先生や、組織指導員の先生や、担任や、クラスの行政・組織責任者が長々といろいろな話をしている中、私の班を含め大体は話を聞かず汽車の話ばかりしていた。隣に座る子を巡ってけんかをしたり、ご飯を食べてから汽車に乗るように、と言う指示に「汽車で食べよう」とルール違反をしたり。みんなが座れるわけではないから、班の中で一番動きが早くて身体が丈夫な子を選んで荷物を預け、手ぶらで汽車に乗って班の座席を確保する「作戦」などに忙しかった。 (つづく)