海を渡った先人達<53> 先人9人目 崇峻天皇⑧

日付: 2020年07月01日 00時00分

 藤ノ木古墳の石棺の蓋は、1988年10月8日に開けられました。未盗掘が確認され、きらびやかな副葬品が多数出土し、葬られていた人物の傍らには金銅製の豪華な冠が納められていました。研究者らの見解では、百済の武寧王の陵墓から出土した遺物に類似しているとのことです。
埋葬されていたのは、20~30歳くらいの長身(およそ180センチ)の男性と成人の女性でした。誰であるのか、現在までに様々な人物の名が挙がりましたが、両者ともに、いまだに特定されていません。
古墳に陵という名称が使われていること、墓は百済の墓制の円墳であり、出土した遺物が武寧王との関連を示していること、そして埋葬されていた遺骨の特徴(身長約180センチ)が崇峻天皇の「崇峻=高貴で背が高く大きい」という意味に一致していることなどから、男性の被葬者を威徳王の王子に比定したいと思います。威徳王の王子は、武寧王の曾孫にあたります。
現在、崇峻天皇の墓は方墳の「赤坂天王山古墳」との説が有力ですが、方墳は蘇我氏の墓制です。また、築造年代が6世紀後半とのことから、この古墳を552年4月に亡くなった欽明天皇(稲目王)の長子・箭田珠勝大兄皇子の墓に比定したいと思います。
稲目王は552年10月に、百済の聖明王から贈られた仏像を飛鳥の向原寺に安置しました。この向原寺と赤坂天王山古墳、稲目王の墓と推定している石舞台古墳の3地点を結んだ結果、「20度・72度・88度」の三角形になりました。この形でも関連が認められますが、当時の向原寺が150メートルほど西の所にあったとしたら、「20度・70度・90度」の直角三角形になり、非常に強い関連が認められることになります。
陵山王女院宝積寺に「王女院」という名称があることから、藤ノ木古墳の女性の被葬者を、崇峻天皇の嬪である馬子王の王女・蘇我河上娘に比定したいと思います。
崇峻天皇紀に、『東漢(やまとのあやの)直(あたい)駒(こま)は、崇峻天皇を暗殺後、蘇我嬪河上娘を奪って自分の妻とした。馬子大臣は、河上娘は死んだものと思っていたが、駒が嬪を汚したことが露見し、駒は馬子大臣によって殺された』とあります。河上娘は、この事件の後、あまり時を経ずに死亡して、威徳王の王子と一緒に葬られたようです。
滋賀県の琵琶湖の東側にある「百済寺」から真西の方向の京丹波町に、由緒・創建年とも不明の「大通寺」があり、大通寺の遥か西には、527年に百済の聖明王が公州(熊津)に創建した「大通寺址」があります。明日香村には、日羅上人の創建と伝えられている「威徳院」があります。また、威徳王の王子の墓に比定した藤ノ木古墳の傍に、馬子王が創建した「法隆寺」があります。
大通寺・百済寺・威徳院の3地点を直線で結ぶと、「62・5度―62・5度―55度」の二等辺三角形になります。この形は、三つの寺が強い関連で結ばれていることを示しています。


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