百済が漢城をふたたび新羅に奪われてしまったのが、553年だと前回述べました。翌554年には、倭国の援軍と共に新羅に入り要塞を築くことになりました。
そんな7月頃のことでした。息子の阿佐太子が新羅で苦しんでいることを憂えた聖明王は、自ら新羅に入り管山城を攻めました。これを聞いた新羅は、ある夜、狗川という所で待ち伏せし聖明王を急襲しました。その時、馬飼いの奴・苦都によって無残にも首を斬られてしまったのです。
聖明王の思いがけない死の知らせに打ちひしがれていた阿佐太子らの遺族は、その後、新羅王から送られた首のない聖明王の遺骸に対面しました。その時の悲しみと無念は、想像を絶するものだったに違いありません。
やがて、阿佐太子らは肥前国(佐賀県)に渡って来ると、遺骸を稲佐山の頂上に葬りました。そして、今の佐賀県白石町(旧錦江村)に留まって、故郷の百済の都・扶余に流れる錦江を偲んで、「錦江」という名をその地に付けたのです。
阿佐太子は、父王の死後、出家することを希望しました。しかし臣下から強く諫められ、3年後の557年に百済に帰って王位を継ぐことになりました。
欽明天皇十八年(557年)三月に、『百済の王子・余昌が王位を継いだ。これが威徳王である』と記されています。百済本紀では、威徳王の即位年は554年とされていますが、実際は557年だったのかもしれません。威徳王は、598年に74歳で崩御しました。
まさにその年(598年)に、威徳王の第3王子とされる琳聖王子(577~657年)が、周防国(山口県防府市)に上陸したという伝承があります。また、周防国の守護大名・大内氏の先祖は、琳聖王子であるとも伝えられていることから、琳聖王子は父の喪を告げに来て、そのまま倭国に住み着いたものとみられます。
威徳王の崩御の報告を受けた馬子王は、その後、志賀の山(琵琶湖の東側)に入り、605年の創建と伝えられる百済寺を建立します。馬子王は、境内にあった一本の大木の上部を切らせました。その木は百済に運ばれて観音像が造られ、根が付いた下の部分には馬子王自ら観音像を刻んだということです。
この像は「植木観音」とも呼ばれ、百済寺の本尊として遥か西の百済の方に向いて安置されています。植木観音の憂いを含んだ顔は、倭王・馬子に暗殺された威徳王の王子、そして、聖明王・威徳王ら百済王一族の無念と哀しみにあふれ、その瞳からは涙が流れているようにさえ感じられます。
法隆寺から西へ約350メートル歩くと、約10分で「藤ノ木古墳」に到着します。この古墳は、6世紀末頃に造られたとされる直径約48メートル、高さ9メートルの円墳です。周囲はきれいに整備されて古墳の中に入ることもできます。かつて陵山と呼ばれ、隣接地には、1854年に焼失した陵山王女院宝積寺が建立されていたとのことです。
石棺の蓋が開けられたのは1988年10月8日のことでした。