大韓民国の建国史(198)新しい政治主体として現実政治に参加した知識人

日付: 2020年06月17日 00時00分

 当時、党の事務局要員に対する教育が共産党式の密封教育だったという一部の非難に対して、慶南地域の事務局長候補として選ばれた芮春浩は「そういうことは全くなかった」と言った(回顧録からの引用)。
「5期生だったが、講義は全員が一緒に受け、授業の後は5~6人ずつグループに分かれ夜遅くまで討論と意見交換をし、使命感と希望の時間を過ごした。教える人と講義を受ける人の区別もなかった。新しい社会の建設の担当者として選ばれたという自負と矜持、そして信念があふれているだけだった。釜山に帰ってきた私は新しい人になっていた」
共和党の初代代弁人となる、朝鮮日報の尹胄榮編集局長は康誠元からの根強い要請を7カ月間も断り、1962年12月、入党を承諾し春秋荘で教育を受けた。
彼は「そこに集まった人々が皆純粋で情熱的でエリートたちだったことに驚いた」という。
〈祖国の近代化、飢えない国、富強な国、非生産的な政争のない国を作るという一念で団結した組織でした。「5・16は軍人たちが起こしたが、国民革命は、私たちがやる」「私たちは植木鉢の花になるより、肥料になろう」といい、一種の独立運動をする気持ちでした。事務局が創案した言葉が「祖国近代化」と「民族中興」だったが、これが彼らの理念でした。国家建設を理念として、この程度の集団が作られたのは、おそらくわれわれの歴史上、珍しいことであろう〉
通訳将校出身で英字新聞のコリア・リパブリックの記者だった朴日永の場合は、再建同志会へ推薦されて事務局要員となった。彼はソウル市の組織担当になって選挙区ごと事務局長候補を物色した。龍山区事務局長の金得滉(後に内務次官)、中区事務局長として朴仁珏(後に平安南道知事)が抜擢された。朴日永は、合同通信外信部記者だった張漢哲を推薦した。張漢哲は再建同再会に入った後、合同通信の外信部で一緒に仕事をした李泳禧(後に漢陽大学教授)記者を推薦した。李記者の名前は調査部へ通報され入会対象となった。
共和党の前身である再建同志会の入会対象リストに載った合同通信外信部の李泳禧記者は、ワシントンポストの秘密通信員としても、主に韓国政治の改革を素材とした記事を送稿していた。ある日、合同通信で一緒に勤務し、東洋通信に移った高明植記者が訪ねてきて、李記者と昼食をしてから、彼をソウル中区北倉洞付近の再建同志会の事務室へ連れて行った。黄性模教授など知り合いたちもいた。彼らは李記者に組織への参加を強く勧めた。李記者が断ってから出ようとしたら、誰かが「李先生は私たちの話を聞いてから入会しないと身上に難しいことが多く生じるでしょう」と脅したという。
李泳禧はその後も粘り強く入会要請を受けて再建同志会の事務室へ出ることになった。ニューヨークタイムズのソウル特派員・徐仁錫(後に共和党国会議員)は、そこで調査部長をしていた。徐仁錫は李泳禧の京城工高の先輩だった。再建同志会は李泳禧に「国際関係の分析」の任務を与えた。李泳禧は共和党事前組織の責任者である陸士8期の金東煥と11師団で将校として一緒に服務した縁があった。李記者は頼まれた論文を書いた後、金東煥に「政治には適性が合わない」と組織を離れた。
再建同志会の慶南事務局長として組織拡大に奔走していた芮春浩は1962年末、組織点検のため釜山に来た金鍾泌情報部長と金炯旭最高委員に会った。
(つづく)


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