海を渡った先人達<50> 先人9人目 崇峻天皇⑤

日付: 2020年06月10日 00時00分

 稲目王の後を継いだ馬子王もまた、聖明王の後継者の威徳王に対し、その責任と任那の復興が成されないことを責めました。このような倭王からの責めたては威徳王にとって圧力になり、心の休まる日はなかったと想像されます。威徳王の王子が、父王の苦悩する姿や倭王に対して不信感を募らせる様子を見ていたとしたら、自ら馬子王の排除を企てたとしても不思議ではありません。
ところで、日本書紀の推古天皇五年(597年)四月に、『百済王が王子の阿佐を遣わして調を奉った』という記述があります。現在、この百済王は威徳王であり、阿佐王子は威徳王の王子である、というのが定説になっていますが、これについて疑問に思っています。
阿佐王子について調べたところ、『佐賀県神社誌・稲佐神社伝』に阿佐太子の名が見出せます。それによると、『607年に、聖徳太子が秦河勝に命じて、百済の聖明王と阿佐太子の御霊を稲佐神社に合祀し、大明神の尊号を授けた』とあります。
また、『肥前国誌』には『稲佐大明神は、第30代欽明天皇の時の百済国の聖明王のことで、聖明王が新羅で殺害されたことにより、その世子の余昌と弟の余恵らは、妻子・従族数十人を率いて我が朝に来た。余昌が父の遺骨を稲佐山の山頂に葬った』とあります。
『稲佐山畧縁記』には、『欽明天皇の朝命により、百済の阿佐王子が、火の君(佐賀県・熊本県の国造)を頼って、妻子・従者と共に八艘の船で杵島の岬に上陸し、この地に留まり居を定め、聖明王と王妃を合祀した。祭神は、百済の聖明王と阿佐太子である』とあります。
これらの伝承から、阿佐王子とは聖明王(在位523~554年)の太子であり、世子(世継ぎの子)の余昌であることが推察されます。
余昌の「余」は、夫余国の「余」で、百済王が中国に朝貢する際の姓であり、本姓は、阿華王(在位392~405年)以来、「阿」と考えられます。すると、本名は「阿昌」ということになりますが、「昌」の韓国語の発音「チャン」は、「佐」の韓国語の発音「ヂャ」と近似していることから、阿昌=阿佐となるのです。
結果、推古天皇五年(597年)の『百済王が王子の阿佐を遣わして調を奉った』という記述は、書記の編者が干支の年代を間違えた可能性があります。干支を一巡の60年遡らせると537年になり、当時の百済王は聖明王です。
537年は、蘇我稲目が倭王に即位した1年後のことでした。稲目王が百済国に対して優位に立つために、伽耶系の応神王朝に倣って《人質外交》を採り入れたとしたら、聖明王は537年頃に太子の阿佐を人質として差し出した可能性があるのです。
阿佐太子(余昌)は、日本書紀の記述から525年の生まれと推定されますが、人質として差し出されたとしたら、13歳頃から29歳頃までの16年間ほどを倭国で過ごしていたことになります。


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