古代史万華鏡クラブ 紙上勉強会 第4回

韓半島からの渡来人
日付: 2020年06月10日 00時00分

驚くほどの人々が海を渡ってやってきた

 これまでの連載で朝鮮半島からやってきた渡来人と日本との関わりについて触れてきた。今回の講座は、日本に文化や技術を伝えてくれた渡来人は一体どのくらいのスケールでやって来たのか? 
大陸や朝鮮半島から日本列島への渡来は縄文時代から始まっていたが、大量にやってきたのはやはり弥生時代になってからだ。
上田正昭氏(京都大学)は渡来の大きな波は4段階あったという。

■第1段階=BC200年頃の弥生前期の波
下関の土井ヶ浜遺跡から300体を超える人骨が発掘された。背が高く明らかに縄文人とは別の民族で、朝鮮半島の北部や中国東北部からの渡来説と中国山東半島からとの説がある。

■第2段階=5世紀前後の応神・仁徳天皇の時代

半島や中国との外交が活発化。半島南部から渡来人の二大勢力、漢氏や秦氏がやって来たのはこの時代の少し前か。

■第3段階=5世紀後半から6世紀初頭

多くの技術者や仏教関係者の渡来があった。また半島情勢の混迷により今来漢人と呼ばれる新しい渡来人が増え、日本列島の文化・技術発展に寄与。

■第4段階=7世紀後半
この時期に百済と高句麗が相次いで滅び、貴族から庶民まで大量の渡来があった。
新天地を求めてやってきたフロンティアたち、文化を伝えるために来た人たち、戦乱や政争を逃れてやって来た人たち。大きな波と小さな波はひっきりなしだったろう(古代だから少人数単位での渡来だろうが、百済、高句麗滅亡時だけは大船が使われたという)。
渡来人の数の推測データはほとんどない。人類学者には渡来人は「きわめて少ない」とか「無視しうる程度」という意見の人も多いらしい。しかし、古代の文書からこんな記述を見つけることができる。
続日本紀には大和政権の首都ともいえる飛鳥の高市郡は漢人ばかり。それ以外は1~2割とか、吉備郡史には「大和は事実上漢人の国、山城は事実上秦の国」の記述がある。702年に作られた豊前国(福岡県・大分県の一部)の戸籍帳が部分的に正倉院に残っているが、住人の85%もが秦氏とその係累であったと分析されている。
6世紀半ばに始まった日本の戸籍制度は豊前国の例のように、まず渡来系の人々を把握することを目指したもので、諸国に定着した渡来人を戸籍により支配することが狙いだったらしい。それだけ渡来人の数が多かったといえよう。
では一体どのくらいの人が渡来してきたのだろう? それを知ることができるある資料を見つけた。
国立民俗博物館の小山修二氏が時代時代の人口を推計した結果によると、縄文晩期の人口は約7万6000人。弥生時代は60万人。古墳時代は540万人。
その人口データを基に、国際高等研究所の埴原和郎氏が渡来人の数を推測している。
世界レベルの人口増加率は紀元元年から1600年頃にかけては0・04%程度だったといわれる。そのデータに対し、縄文晩期から弥生時代の人口は約8倍増。弥生時代から古墳時代は約9倍増で、この間を1000年の時間差とすると年間の増加率は0・4%以上だったと試算され、稲作普及など食料増産による人口影響をまったく超える数値だという。
この異常に高い人口増加率を考えると、かなり多くの人が海外からやってきたと考えざるを得ないと分析。計算はさらに複雑化(詳しくは『日本の古代5』中央公論社刊を読んでください)、それによりはじきだされた古墳時代の渡来系の人口は267万人とでた! 埴原氏は、もっと複雑な関数を使わなくてはいけないが、最も単純なモデルで計算した…と謙遜するがまさに驚きの数値である。
これはひとつの試算であり、諸説あることだろう。しかし、ただはっきり言えることは朝鮮半島や大陸(あるいは東南アジア)からやって来た人々が長い年月をかけて列島に集まり、混じり合って、これだけの数の日本人になったと言えることだけは確かである。

【講師紹介】勝股 優(かつまた ゆう)自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。

<参考文献>
『日本の古代5』中公文庫
『日本古代史と朝鮮』金達寿著 講談社学術文庫
『日本の古代 別巻』中公文庫


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