ノースコリアンナイト~ある脱北者の物語~32 言葉で言い尽くせない6月の悲しみ

日付: 2020年06月10日 00時00分

たんぽぽ


世界史と共に、韓半島史のなかで6月は断腸の悲しみに暮れる月である。この深い悲しみは、1950年6月25日に金日成が同族殺戮戦争を起こしたことから始まって、70年過ぎた今も続いている。
1945年、33歳の時にソ連のスターリンによって北朝鮮のトップに君臨してから82歳で亡くなるまで、金日成は韓半島と世界に数え切れない悪事を働き、その悪影響はいつ終わるか想像もつかない。
43年前の1977年11月に、北朝鮮に拉致された長女と再会するのを心待ちにしていた横田滋さんが5日、87歳でご逝去された。ある日突然、行方不明になった13歳の娘が北朝鮮に拉致されたことを知り、1997年から娘をはじめとする北朝鮮に拉致された人々の救出を訴えてきたが、ごく普通の父親のごく普通の望みはとうとう叶わなかった。
2017年6月19日には、同13日に意識不明の状態で北朝鮮から送還された米国人大学生のオットー・ワームビア氏がこの世を去った。20歳の時、北朝鮮旅行最後の日である15年1月2日に逮捕された。北朝鮮は宣伝ポスター1枚で「国家転覆罪」を宣告して、22歳の若者の命を奪った。
6月19日は北朝鮮の祝日の一つで、1964年6月19日に金正日が朝鮮労働党中央委員会で事業を開示した日として毎年「中央報告会」を含めて大きく祝う朝鮮労働党の記念日だ。この日にオットー・ワームビア氏の追悼式も一緒にやると良いと思う。
横田滋さんが亡くなられた5日の夜は、雲に遮られた月がより私を悲しくさせた。言葉で言い尽くせない痛みだけを自国民に与え、それでも足りずに外国にも手を伸ばしている金氏独裁者たちと、自分も子を産んだ女性でありながら人の悲しみから目をそらして、贅沢を尽くし金氏独裁者の跡継ぎを生産している人間のクズたち、この金氏一族の蛮行を早く終わらせることがこんなに難しいかと月に尋ねた。
自国民に移動の自由を禁じて北朝鮮の約200カ所に豪華な別荘を築き、2日間ずつ遊んでも1年で足りない金正恩の動静がないと、世界各国のメディアが朝晩、連日報道していた。それよりも長く横田滋さんの訃報を報道し、この時期に書く本も横田滋さんの訃報を書き留めてほしい。
北朝鮮では、6月1日は「子どもの日」、6日は「朝鮮少年団創立日」だ。
「子どもの日」は幼稚園児まで祝うのだ。6月1日は「国際児童節」で、1949年9月モスクワで開かれた国際民主女性連盟理事会で制定した社会主義圏の祝日だ。北朝鮮の7~14歳は「子どもの日」は祝うことなく、「朝鮮少年団創立日」を祝うのだ。
週末は日曜日だけの北朝鮮で、農村動員期間中に「戦闘期間」と定めた日々は休日なしで「突撃戦」だ。その「突撃戦」は6月6日祝日まで終わって2日間の休日が与えられた。しかし、やっとの休日も「戦闘期間中」に中身を満たせなければ、休日が1日減ったり、後に延ばされて無くなったりしてしまう。
痩せこけた私たちはその2日間の休日を得るため、お互いに「頑張ろうね」と叫ぶような声で話しかけながら朝5時から走り回った。その中で農場員たちは朝に、私たちに日中の仕事分を指示してのんびりした歩きで行ったり来たりして、隠して耕した自己所有の小さい畑の面倒をみたり、年中溜まっていた家事などをした。
真面目に働いても自分たちに何の利益もないので、国の支援労力が来た時に北朝鮮では許せない「利己主義」を、組織を騙し込んで一生懸命にしていた。
組織の監視と統制を避けてはらはらしながら自分の畑仕事をしている痩せぽっちの農場員たち、「理解してくれ」と訴えるような純粋な目つきの彼らを憎むことはできなかった。農場幹部たちもこのような実態を知っているから日中何回も農場を回るが、私たちは農場員たちが監視に引っかからないようにしてあげていた。
(つづく)


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